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【小説】浜の婦人

 埼玉県の山沿いにある中小都市から、この海が見える街に越してから三週間。
 仕事の都合で引越しを余儀なくされ、嫌々ながら住み着いたこの街だったが僕はすぐに気に入った。
 朝起きて潮騒に音に誘われて浜辺を歩き始めると、一日が始まるぞ! という活気に満ちた気持ちになる。
 夕暮れ時に音楽を聴きながら街を歩けば、まるで映画のワンシーンにでも入り込んだような気分にもなる。
 海がある暮らしというのは僕に想像以上の恩恵をもたらしてくれた。

 少しだけ気に入らないのは浜辺を散歩していると必ず出くわす老夫婦だ。
 背格好から推測すると七十代半ばくらいかと思う。旦那さんは地元野球チームの帽子をいつも被っていて、奥さんは厚塗りの化粧に顔の半分もある大きなサングラスをいつもしている。
  よっぽどのお喋り好きな夫婦のようで、初めは挨拶を交わすくらいだったのが、今では会う度に掴まって根掘り葉掘り聞かれるようになってしまった。
 今朝も結婚していない理由を聞かれた。これでもう三度目だ。

「あなたおモテになるんじゃないの? 何故結婚しないのよ」
「おまえみたいな奴は「まだ大丈夫だ」なんて心の中で思ってるんだろう。しかしな、若者。気付けばあっという間に三十代、四十代だぞ。その頃に家族も持たずに独りでいるのは寂しいものだぞ」

 あー、うるさいうるさい。あんたらの子供でも孫でもないのに、放って置いてくれよ。
 毎度そう思うのだが、この老夫婦は僕がいくら散歩の時間をズラしても浜辺でかち合ってしまうのだ。
 何故だろう、と思って気になって遠くから夫婦の散歩を観察すると、夫婦は朝早くから何度も浜辺を往復しているのだった。
 かと言って、僕が散歩を止めてしまうのは何だかあの夫婦に負けた気がした。僕は負けず嫌いな性格なので何を聞かれても散歩を決して止めたりしなかった。
 いつか死んでくれる事を心の隅で願いながら、日々の散歩はその後も続いた。
 
 住んでいるアパート、出身地、仕事、兄弟、親の年齢、歴代の彼女、車の有無、趣味、様々な情報を僕は老夫婦に明け渡した。
 聞く事がなくなればもうあまり話し掛けては来ないだろうと思い、僕は自分の事を何でもかんでも聞かせてみせた。

 そんな風に過ごしていたある夏の朝。毎朝出くわすはずの老夫婦の姿が浜辺に無かった。僕は少し安堵しながら帰路に着き、何かあったのかと考え始めた。その次の日も、そのまた次の日も浜辺に老夫婦の姿は無かった。

 引越しでもしたのかもしれない。そう思いながら浜辺を散歩をしていると、遠くから大きなサングラスを掛けた奥さんがこちらへ向かって歩いて来るのが見えて来た。旦那さんはいないようだった。
 奥さんは立ち止まると、僕に向かって小さく手を振った。

「おはよう、お久しぶりね」
「旦那さんは一緒じゃないんですか?」
「えぇ、先週亡くなったの」
「そうだったんですか……残念です」

 死んでくれたらいいのにと思ってはいたけれど、まさか本当にこの日が来るとは。
 奥さんはフフフ、と笑った。

「あの人にはね、消えてもらったのよ」
「えっ、どういう事ですか?」

 奥さんはサングラスを僕の目の前で初めて外して見せた。
 しじみみたいな小さな目の周りには細かく、深い年輪が刻まれていた。
 
「だって、あの人邪魔だったんですもの」
「……邪魔?」
「私、あなたの事をもっと知りたいわ」
「あの、色々話したと思うんですけど」
「あなた、女に恥を掻かせる気……?」 

 そう言って差し出された手はまるで木の枝のようで、乾き切っていてあちらこちらに染みが浮き出ていた。
 僕は気味が悪くなり、その場から走って逃げ出した。
 それきり、あの浜辺には寄り付かなくなった。
 あれから季節も代わり、冬を越してこの街に新しい春が訪れようとしている。

 希望の季節らしく、今朝から長らく空いていた隣の部屋が騒がしい。
 大学生か、新社会人だろうか。
 荷物を運び終わったのか、隣の部屋が静かになった。
 インターフォンが鳴る。どうやら新たな隣人が挨拶へやって来たようだ。
 玄関を開けると、春の匂いが僕の心を柔らかくさせた。しかし、隣人の顔を見て僕は言葉を失った。

「こんにちは、お久しぶりね」

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