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【小説】 とじ屋の主人 【ショートショート】

 外回りの用事で千代田へ出向いたついでに、何の気なしに神保町へ足を運んだ。多くの古書店が立ち並んではいるが、これと言って目星を付けている本は特にない。けれども、私は時を止めたままの古い本達に囲まれながら、時々店主の鋭い眼光を浴びせられながらの緊張感を伴った静謐の中に身を置くことが好きだった。自分から名乗ることではないが、変態的と言っていいだろう。
 
 小さな坂を下った先に立つ青い看板の書店へ足を踏み入れてみる。からからと安っぽい音を立てる引き戸を開き、書店の中へ入ると独特の黴臭さが鼻腔に舞い込んでくる。
 数多くの古書の奥には茶色のベレー帽を被った高齢の主人がおり、眼鏡の奥から値踏みするような目で私を見詰めている。
 これは、良い本屋だ。私の他に客の姿はなく、店内は掛け時計の秒針以外に何の音もない。
 狭い店内をぐるりと見回して視線を目の前の棚に戻すも、ふと視線を感じて店の奥に目を遣る。
 すると、主人はまだ私を値踏みするような目でまじまじと眺めていた。
 さすがに気不味くなり、特に探している物もなかったがたまらずに声を掛けた。

「あの、梶井基次郎の全集なんかはありますか?」

 主人はぽかんと口を開くと、間の抜けた声で言った。

「あれ、あんた本のお客さん?」
「え、あぁ。まぁ、はい」
「あっそう……。梶井ならその棚の、左上」
「あ、あった。ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」

 梶井基次郎。その列を眺めながら、この店の主体が本ではないことに考えを巡らす。本が主役ではないとしたら、何の店なのだろう? 
 ベレー帽の主人は見るからに人生経験が豊富そうに見える。そうなると、人生相談だろうか。占いなんて線も考えられる。店の中にヒントはないかと再び視線をあちこちに這わせていると、入口の引き戸のガラスに墨で書かれたこんな紙が貼られていた。

「とじます。料金応相談」

 とじます? とじる、一体何の話しだろう。引き戸に貼られているから、サッシ屋でもやっているのだろうか。とじます、閉じます、綴じます、戸締ます? その真相が気になりだすともう気になって気になって堪らなくなり、私は主人に尋ねてみることにした。

「あの、とじますっていうのは一体何を?」

 主人は新聞に目を落としていたいたが、たちまち顔をパッと上げ、綻んだ顔で急に客対応の口調になってこう言った。

「いやぁ、やはりそうかと思いましたよ。うちに本なんか買いに来る訳がないんですから。さぁ、どうぞどうぞ。狭い所ですが、どうかお座り下さい」

 主人は立ち上がって背後からパイプ椅子を取り出すと、小さなカウンター前にそれを置き、座るように私を促し始めた。
 訳も分からないまま、ただ興味はあったので椅子に腰掛けると、主人はA4サイズのファイルを取り出した。ペラペラと紙を捲り始めたのだが、その紙には一切何も記されてはいないことに違和感を覚えた。

「あの、何をとじるんです?」
「何って、お客さんもタチが悪いですよ。さぁ、どうします?」
「どうしますって言われてもなぁ……勝手が分からない。説明から何から、お任せしますよ」
「ほう、私に任せてくれるとはねぇ。買取にしますか?」
「買取? 私は何も持ってはいないですよ。会社の文書くらいなもんで」
「あぁー、そういうのは要らない。あなたの事ですから」
「私の事?」
「そう。幾らくらい、ご予定ですか?」
「予定?」
「ええ。必要になる金額ですよ。これくらいあったらって目星があればね、こちらも判断しやすい」
「じゃあ……ざっと三百万ほど」
「三百万ですねぇ。ええ、いいでしょう。買取ました、毎度あり!」
「は?」

 主人はペラペラ捲っていたファイルを勢いよく閉じ、カウンターの下へしまった。そして百万円の束を三つ、私に差し出した。

「これが今回の買取金です。毎度!」
「ちょっと。どういうことです?」
「お任せだったんでしょ? もう、綴じましたから」
「そう、ですか。このお金は、もらってしまってもいいんですか?」
「そりゃ、当たり前でしょう! あなたのお金なんですから」
「はぁ、そういうことなら……」

 私は何がなんだかわからないまま三百万を手に入れてしまった。鞄にそれをしまい、引き戸を開いて表へ出る。一気に降り注ぐ冬の乾いた陽射しに、自然と薄目になる。
 何が何だか結局分からないまま、私は大金を手に入れられた事で少々浮き足立った。すぐに帰社し、用事を済ませて今日は早々に退社しようと逡巡していたが、そんな楽しげな気分はすぐにぶち壊しになった。
 スマートフォンが鳴り、美代子とかいう知らない誰かから、こんなメッセージが届いていた。

『今夜はあなたの大好きなビーフシチューです。新調したお皿で食べましょうネ。このお皿、とってもおいしくなりそうでしょう?』

 メインで映されている白い陶器の奥にぼんやりと、私の家のリビングが映っているのがはっきりと見て分かった。
 知らない誰かが、勝手に私の家へ上がり込み、事もあろうに私に写真まで送り付けて来ている。
 私は愕然とし、吐き気を催すほどの戦慄を覚え、この事態をすぐに会社へ報告し、近くの交番に駆け込むことにした。
 今の今まで生きていて「美代子」などと言う女に心当たりはないし、そもそも私は女に縁がなく、ずっと独身の身分なのだ。
 会社の人間に報告したら「冗談はいいから早く帰って来い」と一蹴されてしまったが、そうする訳にもいかず、電車には乗らずに交番を目指して再び神保町を歩き出した。
 

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