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チロとおっちゃん 後半

作・大枝岳志
絵・清世



前編

 ボランティアの金森が息を切らしながらおっちゃんのテントを訪れると、泣きそうな顔である知らせを運びにやって来た。

「おっちゃん、ジンさんが……ジンさんが」
「えっ……おい。まさか……冗談よしてくれよ、だって、あいつまだ四十八だろ? そんな……」
「そうだよ、まだ若いんだもん。だから、就職出来たんだよ! おっちゃん、ジンさん就職したんだよ!」
「紛らわしいツラするんじゃねーよ! 馬鹿野郎!」

 公園暮らしを続けていたジンさんだったが、ある晩に若者達にテントを荒らされ、シェルターに入る覚悟を決めたのだった。それからすぐに印刷工の仕事が決まり、風呂なしだが小さなアパートに入居する事も出来た。
 そんな喜ばしい報告を泣きながら伝えに来たものだから、おっちゃんは訃報を聞かされるものだとばかり思い込んでしまったのだ。

「おっちゃんもどうだろ? この辺りも近頃物騒だしさ」
「いや、俺は……公園出て行っちまったしなぁ」
「山さんもジンさんも、もう何も気にしてないよ。おっちゃんが頑張ってもしアパートに住むようになったら、山さんだってきっと喜ぶよ? あの人最近ボケ始めて来ちゃってるから、まだセンターに入ったままだけどさ」
「でもなぁ……俺はうん、まだいいよ」
「だったら清掃の仕事してみない?」
「清掃? どんな清掃だよ?」
「並木通りの葉っぱ掃除したり、工場の清掃の仕事なんかもあるってよ」
「工場の清掃?」
「年末に大きな工場の煙突掃除があるんだって。人夫いっぱい集めるって噂だよ。おっちゃん得意じゃない?」
「煙突掃除かぁ、久しぶりだなぁ……おい、青年よ」
「なんだい?」
「あれだ、あの外国のよ、煙突から入ってくるサンタってのは、本当にいるのかな?」
「サンタ? 本当にいるかどうかは分からないけど……おっちゃんがサンタになればいいんじゃないの?」
「俺が? おらぁ子供なんかいないからな」
「おっちゃん、チロちゃんのサンタになればいいんだよ! 今年はちょっと頑張ってさ、チロちゃんに美味しいもの食べさせてあげてよ!」
「いっつも缶詰ばっかだからなぁ。チロ、何が食いたい? サンマのステーキか?」

 おっちゃんの横で眠っていたチロだったが、「サンマ」という言葉に自然と顔と「ニャン」という短い鳴き声を上げた。

「ほらぁ、決まりですね!」
「仕方ねぇなぁ。じゃあ、たまには労働してやるよ」

 それからすぐにおっちゃんは路上の清掃人として箒を持ち、並木通りに立った。特別にチロの参加も許されたので、おっちゃんはチロの入ったリュックサックを背負いながらテキパキと落ち葉を掻き集める。すると、現場を指揮していたまだ若い監督がおっちゃんに声を掛けた。

「へぇ、上手いっすねぇ!」
「おう、昔ずっとこんな事ばっかやってたんだよ。掃除だけじゃなくてな、薬品からサンダーから芝刈り機から何だって扱えるよ」
「あの、失礼ですけど今お幾つですか?」
「もう五十九になるよ。ジジイだ、ジジイ」
「まだまだ全然じゃないですか! あの、年明けからうちの手伝いしてもらえないっすか? マジで」
「おらぁホームレスだよ? 住所不定無職、雇ったらあんたの会社が大変になるだけだよ」
「いや、お部屋もこちらで手配しますよ。お願いします、手伝ってもらえないっすか?」
「……猫、連れてっていいか?」

 リュックから顔を覗かせるチロが悲しげな表情で監督に向かって「ニャーン」と鳴くと、監督は大きく頷いてみせた。

「分かりました! いいでしょう!」
「おう、じゃあ……考えといてやる」
「あの、連絡はどうしたら良いですか? 金森さんの団体を通せば良いですか?」
「急ぎだったら河川敷に来てくれ! 大体いるよ」
「か、河川敷? ははは、まぁ……分かりました!」

 おっちゃんが就職するかもしれない。その話を聞いた金森はすぐに河川敷へと走って行った。着いた頃にはすっかり眼鏡が曇っていた。

「おっちゃん! やったじゃない! すごいよ、本当にラッキーだよ!」
「ええ? 何がだよ?」
「有松の監督さんからスカウトされたんでしょ?」
「あー、あれな……まぁ、うん」

 そう言っておっちゃんは金森とは目を合わさず、身の回りのカップやら食器やらを片付け始めた。

「おっちゃん、なんでそんなつれない返事なのさ? チロちゃんだって一緒に住んで良いって言ってくれてるんだよ?」
「まぁ、そうなんだけどな。なんだかよ、俺に勤まるのかなぁって思っちまってよ……ほら、ずっとこんな暮らしだったし、野垂れ死ぬのが俺らしいって思ってたからよ……なんだかな」
「おっちゃん、幸せになろうよ。もう一度」
「幸せ? 幸せなんて……おらぁ、どこに置いてきちまったんだろうなぁ」
「……まだ、大事にぶら下げてるじゃない。幸せ」

 その言葉に、おっちゃんは頭を掻いた。掻きながら、胸にぶら下がる御守りを大切そうにそっと握りしめた。

「おっちゃん、過去を責めちゃダメだよ。過去に責められてもダメだ。おっちゃんは今を生きてるんだから」
「今、かぁ? 今のおらぁ、何が出来んだか……」
「いっぱい出来るよ! 出来るからスカウトされたんだし、チロちゃんだっているじゃないか」
「そうは言っても……こんな俺がなぁ、働いて幸せになっちまっていいもんだか……なんだか」
「……あー、もう! 働けよ! まだ五十九だろ!? せめて定年まで働いて、それからグダグダ考えたらいいじゃないかよ! 俺におっちゃんが幸せになった姿見せてくれよ! いっつもいっつも人のことばっかり幸せにしてさぁ! 俺、あんたが幸せになった姿を見たいんだよ!」

 熱くなった金森がテントの中で半立ちになってそう叫ぶと、おっちゃんは楽しそうに笑った。

「なんだよ……何がおかしいんだよ?」
「あんちゃん、普段は自分のこと「俺」って言ってんのか?」
「あっ」

 そうやって、二人はテントの中で笑い声をあげた。
 とても楽しげに笑う二人は、年の離れたお互いを「親子」よりも「親友」に近いと感じていた。

 十二月二十四日。クリスマス・イヴ。

 その日、おっちゃんはいつものようにチロを乗せて空缶を買い取ってもらいにあきちゃんの所へ向かっていた。寒さでかじかんだ手に息を吹き掛けながら、潰した空缶の山を運ぶ為に夕方の街を歩き続けた。

 人通りの多い繁華街はイルミネーションで飾られていて、おっちゃんは年の瀬が近いのをその時になってようやく気付いた。
 思い出すのは家族と過ごした初めての正月のことで、その時の光景が自然と頭を過った。
 にこやかに笑う妻、きょとんとした顔を浮かべてから笑う赤子の我が子、その顔に微笑むおっちゃんの両親の姿。

「そんなことも、あったんだなぁ」

 そう呟いて白い息を吐きながら身を震わすと、チロがおっちゃんの肩に飛び乗った。

「なんだ? あっためてくれんのか。おまえは優しいなぁ、チロ」

 チロはおっちゃんの傍を片時も離れようとはしなかった。何処に行くにもおっちゃんの後ろをついて行き、おっちゃんがいなくなると迷子の子猫のように河川敷で鳴き続けていた。

 買取額をおっちゃんに手渡したあきちゃんが、一度事務所に駆け込んでから満面の笑みを作って戻って来た。 

「おっちゃん! 今日は特別、これはサービス!」
「ええ!? なんだよ、おい!」

 あきちゃんが渡したのは一本の日本酒と、少し高い猫缶の詰め合わせだった。

「いいのかよ、こんなにもらっちゃってよ」
「おっちゃんっていうかね、チロちゃんに! ほら、今日はメリークリスマスだよ!」
「あっはっは、そうかそうか! ずっと「ベリー苦しみます」だったからよお。あきちゃん、ありがとよ」
「チロちゃんと良い夜を過ごしてね! あ、チロちゃんに風邪ひかせたらダメだかんね!」
「大丈夫だよ、任せなさいっ」

 おっちゃんはおどけた様子で親指を立て、微笑んだ。
 ヨレヨレの野球帽。垢のついた肌。時々自分で散髪する、短くて硬い白髪混じりの髪の毛。古ぼけた黒いジャンパー。
 それなのに、あきちゃんはおっちゃんの笑顔がとても美しいと感じていた。
 その日はとても寒い天気にも関わらず、あきちゃんはリアカーが見えなくなるまでおっちゃんを見送り続けた。

 街はどこもかしこもイルミネーションの飾り付けが行われていて、おっちゃんは眩しいと感じながら河川敷へ向かって歩き続けていた。
 途中、みんなと過ごしていた公園の横を通るとそこも例外ではなく、公園の真ん中に小さなクリスマスツリーが置かれていた。金森が所属する団体が炊き出しを行なっていて、そこに並ぶ列には見覚えのある人もいれば、あきらかに新人だと分かる者もいて、おっちゃんは公園に立ち寄ることもなく通り過ぎて行った。

 テントに帰って来るとおっちゃんとチロ、一人と一匹で火を囲んだ宴が始まった。

「たまの贅沢だかんな、チロ! 食え!」

 おっちゃんは帰りにコンビニで買ったチキンを自分で食べようとはせず、丸ごとチロの前に置いた。
 チロは普段見慣れない物体に一瞬たじろいだが、匂いを嗅ぐとすぐに歯を立て始める。

「うまいか!? おらぁ酒がうまいよ、チロ!」

 楽しげな声に構うことなく、チロはチキンに齧り付いて顔を離そうとしない。その姿を満足げに眺めていると、おっちゃんは頬に当たる冷たいものに気が付いて空を見上げた。

 ふと見上げた真っ黒な空から、粉雪が降り始めていたのだ。
 辺りを見回すと雪が絶え間なく降り出している事にも気が付いて、おっちゃんは思わず子供のようにはしゃいだ声を辺りに響かせる。

「チロ、雪だ! 雪が降ったぞ! これが冬ってやつだよ、どうだ、綺麗だんべぇ?」

 チロはチキンから顔を上げると、目を丸くして空を見上げた。次から次へと舞い落ちる雪の簾に気を惹かれ、捕まえようとして前脚を宙に伸ばした。

「チロ、捕まえても消えちゃうんだよ。幸せと一緒だなぁ」

 そう言ってチロの頭を撫でると、生き物の温かさがおっちゃんの掌に伝わった。血の通った温かさを感じると、おっちゃんはチロを急に抱き寄せたくなった。

「なぁ、チロ。来年はよ……屋根のある所でハッピークリスマスするんべえか。俺にはおまえがいるんだから、これ以上意地を張っても仕方ねぇもんな。そしたら来年のクリスマスこそはよ、暖かい部屋でサンマ焼いて食わせてやっからな。頑張って稼いでよ、おまえにいいもん食わせてやるからな。へへっ」

 酒で温まった身体も徐々に強く降り始めた雪に震え出す。夜が名残惜しいような気もしながら、おっちゃんはチロを抱き上げてテントの中へ入って行った。

 雪はしんしんと降り続き、賑わいの過ぎた街に静かな夜が訪れた。
 おっちゃんとチロはお互いを暖めるように、テントの中で寄り添いながら眠っていた。
 すると、テントの近くで酒に酔った若者の笑い声がドッと響き渡った。おっちゃんとチロはそれに気付く事なく、眠り続けている。

「この前さぁ、うちのカワイイ弟があのホームレスにもらった菓子で腹下したんだよねー。多分だけど絶対そうっしょー、これって成敗するしかなくね? 公園の奴らも飽きたし、新規開拓と行こうぜ?」
「賛成! 街の汚物は除菌消毒しねぇとなぁ!」
「あいつら人間じゃなくてサンドバックだからな! これマジね」

 六人組の若者は頭を金や赤に染めていて、煙草を咥えながら歩いている。金属バットがアスファルトを擦る音が辺りに響くと、チロの耳が反応した。
 首を上げ、辺りを警戒し出してから間もなくだった。

 テントの入口から突然数本の腕が伸びて、おっちゃんの足を掴んだ。その腕が身体ごとテントの外へ引きずり出すと、おっちゃんの寝惚けた声がチロの耳に届いた。

「何すんだよお! い、いでえっ!」

 若者達は何の言葉も吐く事なく、おっちゃんの身体をいきなり金属バットで滅多打ちにし始めた。とっさの出来事におっちゃんは何が起こっているのか理解出来ていなかったが、とにかく身を守る為に身体を丸くした。冷たい雪に着いた頬がかじかみそうになり、全身に激痛が走り続けた。
 おっちゃんが痛みに耐え切れずに背中をさらに丸めると、辺りに若者達の笑い声が響き渡った。

「ジジイ、死ねよ! 臭ぇんだよ!」
「ほらほらぁ、社会のゴミはゴミらしくさっさと消えて下さいねぇ!」
「頭いけ、頭!」

 金髪の若者が金属バットを高々と振り上げた途端、テントから飛び出したチロが若者の顔面に飛び掛かった。チロは怒りを露わにした声をあげ、躊躇なく爪を立てる。

「いってえ! 何すんだよこのクソ猫がよぉっ!」

 顔に傷が出来た若者が地面に着地した瞬間のチロを怒りに任せて蹴り上げると、他の若者も続いてチロを取り囲んで蹴り始めた。げらげらと笑いながら、まるでサッカーボールのようにチロは蹴られ続けた。

「ジジイも汚なきゃ猫まで汚ねぇなぁ!」
「こんな汚いのが飼い猫なの? 殺そうぜ。どうせ害獣だろ?」 
「うーい! 猫ボール、パース」
「ボレー行け! ボレー!」

 おっちゃんは腫れ上がった両目でその光景を目にした途端、全身に力を込めて立ち上がり、叫び声をあげながらその輪の中へと飛び込んだ。
 ぐったりとして虫の息になったチロを庇う為に身体を丸くすると、頭を真横から蹴飛ばされた。

「何してんだよジジイ! てめぇはしゃしゃり出て来んじゃねーよ!」
「せっかくネコボールで遊んでたのによ。謝っても許さねぇよ?」
「ジジイ、土下座しろよ土下座」

 若者達は口々におっちゃんを罵る言葉を吐いていたが、その言葉は一つも耳に届いてはいなかった。
 腕の中で熱を失くしていく小さな命を感じ取ると、止めどなく涙が溢れ出た。

「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……」

 寒さに震え、涙と洟水を垂らしながらおっちゃんは謝り続けた。しかし、その言葉は若者達へ向けたものではなかった。

 春の日、桜の花弁の積もるリアカーの上で欠伸をしていた。出掛ける時はリュックの中から顔だけを覗かせて、時々丸い目をさらに見開いて不思議そうに街を眺めていた。夏の日は生まれて初めて見たであろう蝉に驚き、飛び上がって笑わせてくれた。秋には黄色い葉の落ちる銀杏並木を共に静かに眺めていた。

 道を誤りそうになった時、それを止めてくれたのもこの小さな命だった。
 次こそは失くさないように、守り抜こうと固く決意した、たったひとつの命だった。

 その熱はおっちゃんに命を伝え続けていた。
 失くしていた幸せの在処を教えてくれた。
 おっちゃんは自分の身体の痛みも忘れて泣き続けた。もう動かなくなってしまったその命に指一本触れさせまいと、力を振り絞って身体を引き締める。

 笑い声と共に振り下ろされる痛みに、声が洩れてしまう。より大きくなる笑い声、そして痛み。頭にも数発叩き込まれたが、小さな命に与えられた苦痛に比べたら屁でもないと自分に強く言い聞かせた。

 すると、若者の一人が肩で息をしながら呟いた。煙草の煙と、白く吐いた息が混ざり合う。

「おい……誰かデカい石、持ってこい。こいつマジでムカつくわ」
「それ、やばくね?」
「俺ら未成年だよ? 大丈夫っしょ。それに、今日はイヴだぜ。たまにはいいことしないと」
「そうだな」

 それからすぐに鈍い音が河川敷にひとつ響くと、辺りは雪の運ぶ静けさに包まれた。

 積もり出した雪に河川敷を後にした無数の足跡がまだ残されていた頃、区の慰労会で金森とあきゃんはおっちゃんの就職話を酒の肴に、顔を赤らめていた。

「えー! おっちゃん、就職するの!?」
「あれ、聞いてませんか? ちゃんとアパートまで用意してもらえるんですよ」
「じゃあチロちゃんはうちで引き取れるって事ね!」
「残念。チロちゃんも一緒に住んで良いそうです」
「えー、ガッカリだわぁ」
「でも、本当に嬉しいじゃないですか……おっちゃん、ずっと人の事ばっかり面倒見てたから」
「そうねぇ。うちに持って来るカンカンだってさぁ、必死に拾ったのに仲間が困ってるからってわざわざ分けてやってたんだってよ? 生きるか死ぬかの世界で偉いわぁ、って思ったわよ」
「炊き出しの時だって寒いのに列の整理してくれて。並んで下さいよって言ったら「いやいや、おらぁ最後でいいんだぁ」って」
「あら、モノマネ上手いじゃない」
「はい、俺たち仲良いんで」
「あなた二代目になれるわよ!」
「いや、それは勘弁して下さいよ。でも嬉しいなぁ! おっちゃんとチロちゃん、これからは幸せがいっぱい待っているんだろうなぁ」
「あれだけ人間の出来た人、中々いないわよ。運命があんな立場にさせただけで、本当は誰よりも優しい人なんだから。絶対幸せになるわよ」
「そうですよ、あんな優しい人は他にいませんよ。それはきっとチロちゃんが一番良く知ってるんじゃないかな」
「だからあのふたりはいっつも一緒なのよね」
「ふたり? 一人と一匹じゃないんですか?」
「違うのよ、ふたりなの。あのふたりは特に」

 しんしんと降り続く雪の冷たさを肌で感じた。次に、頬を嘗める温かくざらついた感触に気が付いた。薄目を開けると目の前でチロが自分の頬を嘗めている。それに気付いた途端、おっちゃんは飛び上がって大声を上げた。

「チロ! おまえ生きてたのか! 良かったぁ、良かったなぁ!」

 おっちゃんはチロを抱き上げて傷口を探し始めたが、まるで何事もなかったかのようにかすり傷ひとつ見当たらなかった。そして、自分の身体に触れてみると何処にも痛みがない事にも気が付いた。
 全部夢だったのか? そう思い、ふとテントを振り返ると中の物まで引っ張り出されてこれ以上ないほどに荒らされていた。
 雪の積もった食器や猫缶をぼんやり眺めながら、おっちゃんは何かを悟ったように小さく頷いて微笑んだ。

「そっか……まぁ、俺もおまえも、よく頑張ったよな。頑張った……」

 抱き上げたチロに頬を寄せると、チロは小さく「ニャン」と鳴き、尻尾を振りながら喉を鳴らして喜んだ。
 幸い無傷で済んだリアカーにチロを乗せ、おっちゃんは夜を歩き始める。

 しんしんと降り積もる雪が街から音を吸い取って、白く静かな夜を作り出して行く。雪を踏む音だけが耳に届くと、おっちゃんはまるで寒くない事に笑みを漏らした。

「おまえと一緒だからな、おらぁ嬉しいよ」

 そう呟くと、チロは器用にリアカーのヘリを伝っておっちゃんの肩に飛び乗った。
 街で一番の高台にリアカーを停め、おっちゃんとチロはイルミネーションが灯る街を静かに見下ろしている。

「冬は綺麗だなぁ、チロ。おらぁあんなキラキラしたもの電気の無駄だとばっかり思ってたけど……こうして離れて見るとあんなに綺麗なんだな。チロ、おまえも綺麗だなぁって思うか?」

 肩に乗ったチロは「ニャーン」と鳴き、おっちゃんの頬におでこを摺り寄せる。音のない街に雪は降り続き、星が明滅するようにイルミネーションは光り輝いていた。
 おっちゃんは手拭いを首に巻いてリアカーのグリップを握ると、荷台に戻ったチロに向かって優しく微笑んだ。

「チロ、そろそろ行ってみんべぇ」

 返事の代わりに「ニャーン」とチロが鳴くと、おっちゃんは一歩一歩、足を前に踏み出した。雪を踏む音が途切れると、おっちゃんはリアカーごと高台の突端から空に昇り始めて行く。
 雪の降る空を進んで行くと、月とはまるで違う大きくて柔らかな白い光が空に浮かび上がる。
 おっちゃんはその光を目指して空を昇り続けて行く。

 すると、白い光の方から無数の鈴の音がやって来るのが聞こえて来た。
 何十、何百、いや、何千という鈴の音が近づいて来る。音は聞こえるのに何の姿も見えなかったが、不思議と恐怖感は無かった。
 その鈴の音がどんどん近付いて来て、街へ下りて行くのをおっちゃんとチロは耳で感じ取っていた。鈴の音の中を獣のような匂いが掠めると、次に幼い頃に嗅いでいた、優しかった父の匂いがやって来た。大きくて、優しくて、少し離れた場所から見守られているような安堵をおっちゃんは覚えた。

 鈴の音が街へ続々と下りて行くと、いよいよ白い光にリアカーが包まれた。
 温かく、柔らかな光の中から小さな光の手が伸びて来る。その手がおっちゃんの頬に触れ、声が聞こえるとたまらず涙が溢れ出た。

「ごめんなぁ……ずっと、本当にごめんなぁ……守ってやれなくって、本当に……」

 頬に伸びた手が次にチロに伸びると、光はそっとチロの頭を撫で始めた。

「そいつ、チロって言うんだ。可愛いだろ? 俺の相棒なんだよ。人間じゃねぇけど、おまえの代わりになってくれた、大事な相棒なんだ。へへっ」

 そう伝えると、白い光が大きくなっておっちゃんとチロを完全に包み込んだ。
 優しくて温かな気持ちになると、光の中から言葉が聞こえて来た。
 ようやく、赦された。
 おっちゃんがそう感じた次の瞬間に、一人と一匹は柔らかな光と共に夜空の中へと消えてしまった。

 河川敷の隅に、有志達によって小さな無縁仏が作られた。

 それから数年後の十二月二十五日。
 眼鏡を掛けた青年が小さな手を引きながら無縁仏の前に立っている。
 その小さな手が、不思議そうに無縁仏を眺めている。

「ねぇ、これって誰のお墓ぁ?」
「……そうだなぁ、ふたりのお墓かな」
「ふたり? ふたりって誰?」
「サンタクロースと、猫」
「猫ぉ? おかしいよ、トナカイでしょー」
「いや、このサンタさんは猫なんだよ。でもね、ソリを引っ張るのはサンタさんなんだよ」
「えー、サンタさんかわいそうだよー」
「ううん、そのサンタさんは嬉しいんだよ」
「変なのー」
「ははは、変だろ? でも、最高なんだよ」

 青年は花束を置こうとしたが、既に埋まりきっていて置く場所に悩んだ。何処に置こうか迷った挙げ句、酒と猫缶を置いて花束は持って帰ることにした。

「花なんかもらってもよぉ」

 そんな風に頭を掻く姿を想像して、口に出してみると我ながら似ていて思わず噴出してしまう。小さな眼差しが不思議そうに見上げるのを感じ、青年は手を取ってゆっくりと歩き始めた。


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