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【読書録】宇佐美りん『推し、燃ゆ』(河出書房新社)

宇佐美りん『推し、燃ゆ』(河出書房新社)

3月5日読了

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芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』を、書店営業先で買ってしまい、その後ほかの書店を回っている間の移動時間で読み終えてしまった。

芥川賞受賞作はどれも短時間で読めるのでありがたい。

ところで『推し、燃ゆ』というタイトルは僕のTwitterのタイムライン等で何度も目にしていたはずなのだが、「推し」という単語に気を取られていたようで「燃ゆ」を「萌ゆ」だと思い込んでいた。

「推しが尊いわ~萌え~」的な。

どうやら違うらしい。「燃ゆ」なのだ。燃えるのだ、推しが。

しかしそれは「推しているアイドルが謎の焼死を遂げる」という『探偵ガリレオ』や『キサラギ』みたいな話ではない。(『探偵ガリレオ』第一章・燃えるは人体発火の事件、キサラギは焼死したアイドルの謎をオタク5人が解き明かそうとする会話劇)

主人公の”推し”アイドルがファンを殴って炎上するのである。

これはただ事ではない。

そして他人事でもない。

いや、別に誰かを熱心に推す経験もなければ、ましてや誰かに推されることもない僕なのだけど、それでもこの物語は僕が生きている世界と地続きの話であることは間違いない。

そんなきっかけで手に取り、あっという間に読み終わってしまったわけだが、さすが芥川賞。ちゃんと純文学していてなおかつ現代の「推し」という現象を見事に鮮やかな文体で描き切っているように思う。

共感と評価

しかも作者は21歳。僕より3つも年下である、才能が怖い。

なんてことを思いながらインタビューや色んな人の感想を漁っていたところ、とあるレビューに行きついた。

ここでそのリンクを貼るのはやめておくが、彼は(あるいは彼女かも)この作品があまり合わなかったようだ。

曰く、

「かわいそうな私を構って」感がつきまとい、苦手でした。

だそうだ。

確かに主人公は「可哀想な自分」の中に閉じこもっている。し、彼女の無自覚な怠惰さみたいなものには僕も共感するのは難しい。

というかそもそも僕は「推し」のない人生なのでその時点で共感はできない。(「推し」がいる人について書いた話は以下)

元来オタク気質ではあるので、コンテンツに金を落としたいという思いはあるのだけど(それは書店で本を買ったり、映画館で映画を観たりとかそういう話)、グッズを過剰に買ったりはしない。どちらかというとコンテンツ原理主義的な部分がある、僕には。

だから主人公には全く共感はできないのだが、共感できないということと面白くないとか評価できないというのは全然違う評価基準であるのではと思ってしまう。

共感できないけれど面白いという作品など無限にあるし、その逆で主人公にビシバシ共感するけど面白くはねえという作品だってある。

それらは関係なくはないけれど、かといってイコールではないはずだ。

では、主人公に共感できないという時点で共通している僕と上の感想を書いた人の違いはなんなのだろう。

それは最初の方で書いた、自分の世界と地続きな事象であると捉えられているかどうかなのではないかと思う。

僕の周りには本当に色んな属性の人がいる。ありがたい。同性愛者の友達もいれば、陰謀論に傾倒してるやばい高校の元担任がいる。(高校の元担任の話は以下)

意識高い人たちでオナニーする友達もいれば、本作に出てくる友達のようにメンズ地下アイドルにハマっている友人もいる。(意識高いセミナーの人で自慰をしてる友達の話は以下)

「多様性を大切に」とか言わなくとも、自然と確保されている気がするのだ。

だから自分は共感できないけれど、そういう人もいるよなとすんなり呑み込めてしまう。

ところがそういう人がフィクションの中にしか登場しない生活を送っている人にとっては「アイドルを推すだけで高校中退をし、働かず、ゴミだらけの部屋で過ごす主人公」に対して嫌悪感しか湧かないのだろう。

ところがそんな人はごろごろいるはずだ。「二丁目のゲイバーの2部(朝からの営業でカレーとか朝飯が食えるらしい)に行き過ぎて貯金が底をついた友人」だって実在しているのだから。

そして、そういう自分とは違う属性の人々に思いを馳せられるということが、文学やその他の作品のもつ偉大な力のはずなのだ。

上に挙げた感想の筆者は、自分がこの作品を好きになれない理由を、

自らの経験と思しき内容で、社会人経験のない作家が芥川賞を取ったこと

に嫉妬しているからではないか、と書いて感想を締める。

「社会人経験のない作家の小説は甘い」という先入観がそうさせています。実際そんなことないのに、です。

これを読んで僕は怒りが湧いた。本当に何を言っているのだろう。

『推し、燃ゆ』はその巧みで、声に出して読みたくなるような描写によって、現代の若者特有の生を炙り出している。

例えば堀江敏幸さんは、この作品の結末を

鮮やかに決まりすぎていることに対する書き手のうしろめたさまで拾い上げたくなるような、得がたい結び

と評した。本当にその通りだと思う。

にもかかわらず、社会人経験のない若いやつが芥川賞を受賞できることに対する嫉妬(しかもそれに自覚的なところが最悪だと思う)のせいで、この作品を好きになれないなどという感想を書いてしまう。

なんのために本を、小説を、作品を読んでいるのだろう。そんなクダラナイ感想こそ燃やして捨ててしまえばいいのにと心底思ってしまった。

オタクと語彙の喪失

と、他人の否定的な感想を腐すことで作品を褒めるという下品なことを僕もしてしまったのだが、本作を良いと思ったところはそこだけではない。

作中に何度か「絵文字のような簡略化された顔」「簡略化した感情はラクなのかもしれない」という表現が登場する。

昨今「推し」という単語が世に広まって以来、自分の好きなものは何でもその単語を使って表現できるようになった。

アイドルを推す、小説を推す、異性も推す……。

僕たちの回りは「推し」で氾濫している。

とこらがこの「推し」という単語は簡略化された表現そのものでもあると思うのだ。

なんでもかんでも「推し」という形式に押し込まれていく。「推し」という単語の陳腐化はすでに始まっているような気がする。

(「推し」は既に概念化されていて、概念が共有されるのはそれはそれで高度なことではあるのだけど)

これはオタクたちが「推し」について語る時にすぐ「語彙力を消失」「語彙力どっかいった」状態になってしまうことと関係があるのではないかなどと、思ったり。(正直まだちゃんと考えられてはないのだけど)

そういう「語彙力の消失」は結果的に自分を伝える言葉を失うことでもあるわけで、つまりは「自分の消失」にも繋がっているのではないかとか思うのです。だから「推し」が燃えていなくなってしまうと自分もなくなってしまうのが主人公だったんだよな、きっと。

関連作品

芥川賞と同時に発表された直木賞受賞作

『推し、燃ゆ』もノミネートされている本屋大賞ノミネートは以下。発表は4月14日。






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