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【読書録】東浩紀『哲学の誤配』(ゲンロン)

東浩紀『哲学の誤配』(ゲンロン)

2020年5月3日読了。

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読んだきっかけの話

コロナウイルスが流行し始めてから、多くの人々と同じように僕の心はざわついている。とはいえ多くの人々の関心が感染者数の推移や死者数、緊急事態宣言の日数にあるのに比べて、僕はそうしたことへの興味は薄い。

より興味があるのは、この特殊な状況の中で商売を続けたり、作品を発表したりしている人である。

「将来に対する唯ぼんやりした不安」を理由に自ら命を絶ったのはたしか芥川龍之介だっただろうか。僕もいま間違いなく、同じような気持ちを抱いている。確かに、恐怖や不安は人を蝕み、殺すのだ。

そんな中にあって、経済活動を続けている人々に希望を感じる。それはコロナウイルスの流行で何かが変わってしまった僕らの世界と、以前の日常を繋いでくれるもののように感じるからだ。

だから僕は、この現状下でも変わらずに世に出された作品に対し、尊敬と安心の念を持ってしまう。それを言い訳にして軽率に、様々な作品を購入してしまう。

『哲学の誤配』は批評家・作家の東浩紀が経営する出版社ゲンロンから刊行された著作だ。ゲンロンは数ある出版社の中でも特殊な会社である。出版事業を手掛けると同時に、ゲンロンカフェというイベントスペースをやっていたり、インターネット上で番組を放送したり、まさに言論に関わる様々な事業を行なっている。

とはいえ規模的には大きな会社ではなく、このコロナ禍での影響も少なくないはずである。実際、カンパ商品という形で寄付をお願いしたりしていた。

今作も同時発売の『新対話篇』という本と一緒にカンパ商品として販売されていたものを購入した。二冊に著者の直筆サインが入り、株式会社ゲンロンからのメッセージや限定のステッカーが入っていた。社会人二年目の僕は裕福とは対極にいる存在なのだが、自分の好きなものを応援するという言い訳をして購入した。


東浩紀との出会いの話

『哲学の誤配』はそのようにして購入し、僕の元へと「誤配」されてきた東浩紀の最新作である。

僕が東浩紀に初めて接触したのは大学一年生の頃だったと思う。

それまで哲学に興味はなかったのだが、僕の代のセンター試験の現代文で佐々木敦『未知との遭遇 無限のセカイと有限のワタシ』(筑摩書房)が出題されたことで興味を持った。(同書の内容はほとんど覚えていない)

(今見ると星海社から新書版も出ているらしい。)

そこから哲学界隈をディグっていくうちにたどり着いたのが東浩紀だったのである。今覚えばたいしたディグではないが。

ちなみにゲンロンにはゲンロン友の会という会員制度がある。

僕が就職活動中、受けていた会社は出版社がほとんどだったので、よく読んでいる本や、好きな作家を聞かれることが多かった。

とある出版社で最近読んだ本を三冊あげよと言われ東浩紀の著作を出したところ、「じゃあもちろん友の会会員でゲンロンカフェにはよく行ってるんだよね」と言われてしまい何も言えなかったことがある。

もちろん存在は知っていたが、安くない会費を払うというのは学生には厳しかった。それからも会員にはならずにきたが、今回カンパ商品を買った機会に、友の会の会員に晴れて申し込みをしてみた。コロナを言い訳に軽率に色々なことに手を出せる。


読んで感じたことの話

ここまで本の内容には踏み込まず、その外部のことについて書いてきた。そもそも哲学書の感想を書くというのは一般読者にとって大変無謀な試みであるので仕方ないのだけど、少しだけ読んで思ったことを記しておこうと思う。

東浩紀のアンチは多い。いつも叩かれているような印象さえ受ける。アンチが東浩紀を叩く時よく使われるフレーズは「逆張り」である。曰く「社会で多く言われている意見の逆を言っておけばそれっぽいことを言っていると思っている」という批判なのだろう。

今作の前半「批評から政治思想へ」を読んでこの理由がわかったような気がした。

東浩紀は常に社会のよりよい方向みたいなものを考えている。社会や思想のアップデートと言ってもいい。そういう思考の中では、現状とはあくまでも現状に過ぎないのだと思う。アップデートするためには今、言われていることや現状の先を見据えて変えていかなくてはならない。その作業に終わりはない。

だから、今このときの世論から見るとまったく違う方向性で発言しているように見えるのだが、多分それは当たり前なのだ、アップデートのためには今ではなく先を見ているのだから。

そんなふうに思うと、東浩紀批判で「逆張り」というフレーズがよく使われう理由がストンと落ちた気がした。


また、個人的に最も興味深かったのは後半の「哲学の責務」でコンテンツの研究についての話でニコニコ動画やYouTubeについて言及している箇所だ。

一部抜粋する。

(前略)新しい情報技術に関する議論では、ここのコンテンツはさほど重要ではないことが多いものです。ユーチューブのすごさは、そこに投稿されている動画にはありません。プラットフォームの革新、仕組みの革新こそが刺激的な部分です。だから、仕組みそのものをおもしろいと思えるかどうか、という感性のちがいが重要になってくる。この感性の違いはなかなか深刻です。(中略)コンテンツにしか関心がないひとは、いくら説明してもその重要性がわからない。ぼくの個人的な経験では、とくに出版社の編集者がそうです。

僕はずっと自分の会社のYouTubeチャンネルをもっと活用すれば面白いことができるのではと思っていたが、その重要性をなかなかうまく言語化できずにいた。

この箇所を読んで、どのように説明すれば良いのかがスッと見えた気がしたのが興味深かった。僕はシステムを構築したり、プラットフォームを作ったりということに関心があるのではないかということも気づかされた。

とはいえ、それらをマネタイズするのには時間がかかるのも事実なので、会社のなかですぐに実行するのは難しいのだけれど。

東浩紀は大学で教えることをやめ、自ら会社を立ち上げた。その経緯についても作中で言及されているのだが、彼が事業を興した理由と、彼の思想がリンクしているということにグッときた著作だった。(過去作でも言及されていることではあるのだけど)

そんな会社を少しでも応援するために買った著作が、インスピレーションや閃きを僕に誤配してくれたと感じる。


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