士魂部隊
北海道はロシア領になっていた?
皆さんは、北海道の陸上自衛隊に
士魂部隊
という勇ましい名前の戦車部隊があるのをご存知だろうか。
この部隊は、北海道恵庭市の駐屯地にある
第十一戦車隊
という部隊の別称で、その名前の由来は旧日本陸軍の戦車部隊からきており、その部隊がなかったら、北海道は今ごろロシア領土になっていたかもしれないというあまり知られていない感動的な話を知ったので、ここに紹介したいと思う。
話は、日本がポツダム宣言を受諾して、終戦が確定した後の、1945年8月18日に遡る。
その頃、当時日本の領土であった千島列島の最北端の占守島(しゅむしゅとう)という小さな島には、満州での活躍などで「戦車戦の神様」と言われていた歴戦の勇士の
池田 末男大佐
が率いる精鋭の第十一戦車連隊が配置されていた。
この部隊は、その勇猛果敢さから、連隊の番号である「十」と 「一」を重ねて武士の士の文字になぞらえて
士魂部隊
と呼ばれていたほどであったため、終戦の報に、その将兵は悲嘆することしきりだったらしい。
しかしそれは、同時に家族が待つ故郷に帰れるという希望の知らせでもあり、兵士たちは、武装解除に動きながらも、家族との再会に胸を膨らませていた。
ところが、ソ連のスターリンは、終戦になったにもかかわらず、北海道までを掌中に収めようと企て、その島に数千の兵を送り込んできたのである。
急報を受けた池田大佐は、島内の天神山という場所に集結した部隊に
諸子は、赤穂浪士のように恥を
忍び、後世に仇を報ずるか
白虎隊となって、民族の防波堤
となるか
白虎隊とならんとする者は手を
挙げよ
と訓示した。
すると、誰ひとり躊躇することなく、全員が手を挙げたというのである。
終戦になって、武装解除に動いている時期においてさえなお、この部隊は、たとえ自分たちを犠牲にしてまでも、この国を守ろうとして毅然と立ち上がったのである。
家族のもとに帰れるという望みを立ちきってまで、国を守ることに、それぞれが自らを律したのである。
その後、日本軍とソ連軍との戦いは熾烈を極めたが、予想もしなかった日本軍の反撃に圧倒されて大きく後退したソ連軍であったものの、最終的には終戦が確定していたこともあり、日本軍は武装解除に応ぜざるを得なかった。
この戦いで、池田体長以下多くの将兵が戦死し、生き残った者は、シベリアに抑留されて、塗炭の苦しみを味わうことになるのである。
占守島での戦いを決断したのは、この方面の軍を直接管轄していた第五方面軍の樋口季一郎中将という方であったが、この方の
ソ連が攻めて来た場合は
自衛のための戦いもやむ無し
という、武装解除の方針を侵してまでも自衛のためには戦うという英断と、その指揮を受けて占守島で直接戦闘に関わった池田隊長の戦車部隊をはじめとした約8,500名の将兵の死闘がなかったら、今ごろ日本の北の国境は、青森あたりで、北海道はロシア領となっていたかもしれない。
事実この戦いがあったために、ソ連軍はその進行を大きく遅らせざるをえず、その間に米軍の日本占領が完了して、北海道はソ連の手に落ちずにすんでいるのである。
しかし千島列島は、火事場泥棒のようにソ連が占領したままで、現在に至っているのであるが、一旦占領されて他国民が移り住んでしまえば、その生活実態を既成事実化されて、返還されないのが実情でもある。
このような経緯があって、現在北海道恵庭市に駐屯している自衛隊の戦車部隊は、この旧日本軍の部隊を顕彰し、伝統を継承するために、その部隊の番号と別称をそのまま踏襲して、日本の北の守りについている。
このように、外国からの侵略に対して、常に備えておかなければならないことは、今回紹介した占守島の戦いをはじめ数多の戦史が証明している。
現在の平和な日本は、占守島で散花された英霊のように、先人たちが命をかけて守ってきたことにより築かれたものであるという事実を決して忘れてはならない。
死するとも、なお死するとも我が魂(たま)よ
永久(とわ)にとどまり、御国(みくに)守らせ
「桜花」特別攻撃隊 緒方 襄命
九州南方洋上にて戦死
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