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『そこに闇があるのなら』存在を証明できない私たち#04

 濱田さんとは不思議な縁で知り合った。それを説明しようとすると一章を割かねばならない。そのため、まず不思議な縁とだけ書く。

 年始に彼女の事務所の方向へ用事があって連絡すると、すぐに応じてくれて国立駅で待ち合わせることになった。濱田さんは、化学物質過敏症に特化した建築家である。

 時間より早く着いてしまった私を心配し、会うなり「久しぶりに降りたら雰囲気が違ったわ」と仰る。
「何年も前に再開発計画が出たんだけど」と南を向き、「あっちの方に一橋大学があって、ビルが建ったら学園都市としての景観を損ねるって地元から反対が起きたのよ。それで建物の高さも制限されてる。だから駅の周りには何もないままだと思っちゃってた」
と、私が途方に暮れているのではないかと案じてくれたのだが、当の本人はショッピングモールをぶらぶらして気楽に待っていた。

 目的の飲食店まで狭い歩道を行きながら、濵田さんは続けて話す。
「でもまぁ、あんまり大きなマンションばかり建てても、新築の頃はいいけど10年15年も経てば設備が古くなってボロが出てくる。修理には一軒家が10万円程度で済むところを集合住宅なら何十万、下手したら桁が上がるかもしれない。だから建築をやってて言うのもなんだけど……」

 どんなに持て囃されるものでも、人気を博するものでも、手放しで楽観はできない。どんなものにも良い面と悪い面はある。特に集合住宅は、その構造上どうにも化学物質過敏症とは相性が悪い、という旨話が及んだところで、はたと「それで、いつ発症したの? 住まいはどんな?」と、濱田さんは私に向き直った。

 これまで誰かと化学物質過敏症について話すとき、その相手が発症者であろうがなかろうが、大抵の場合ひととおり経緯を語った後で出てくるのは、「食べ物に困ってないか」とか「日用品はどうしているか」といったもので、出だしから住環境へ言及されたのは初めてだった。さすがというよりない。



 彼女自身、シックハウス症候群が始まりだった。
 幼少期は「子供のくせにすぐ疲れたといって怠ける」と値踏みされていたそうだ。そういう体質なのだと思っていた。風邪をひきやすく、疲れが取れず、いつもだるい。美術大学でプラスチックや接着剤にまみれ、さらに写真部に入って酢酸と現像液だらけの狭い暗室で過ごした。違和感を覚えながらも、「自分は体が弱いから」「すぐに疲れてしまうから」と、体質のせいにしてやり過ごしてきた。

 ところが就職先で一気に体調が崩れる。
 新社屋だった。
 壁、床、カーペット、椅子、机。なにもかもがピカピカと新しい。

 ビニールを破って新品をおろしたときを思い出してほしい。どんなものでもいい。プゥンとそれぞれに独特の匂いを感じないだろうか。新品というものは、新しいというだけで何かをより空気中へ放ち、あたかもそうせざるを得ないかのように主張してくる。

 宙に漂う目に見えない何かに囲まれ一日仕事をして、帰宅すると気を失うように眠ってしまい、朝は這うように出勤する。だがそうしてもなお、シックハウス症候群だとは気づかなかった。いや、そもそもこの頃にはまだ、「シックハウス」という言葉がなかったのだ。



 概念を生むのは、その意味内容を構築する言葉、それを表現する固有の名詞だ。言葉がなければ「それ」を言い表すことができない。言い表すことができないものは、ないも同じになってしまう。

 そのもの自体の辺縁を掠める類語はあっても、中心を射抜くような単語がないとどうなるか。大胆にも、試しに「お母さん」を封じてみる。もちろん「母」も「ママ」も「お袋」もない。するとその女性をなんと表現しよう。「私を産んだ女性」か。これで事足りる関係もあろうが、ずいぶん味気なく、糸を切られたような寂寥感を覚える。

 濱田さん、そして多くのシックハウス症候群や化学物質過敏症は、長らく「不定愁訴」といわれてきた。「なんだかわからないが、だるいとか具合が悪いと訴える人」だ。そう見做されて、彼女は30年を過ごしていた。

 シックハウス症候群は、現時点では化学物質過敏症の〝親戚〟のような位置付けである。「シックビルディング」「シックオフィス」「シックスクール」といったりもするが、広義の化学物質過敏症の中に、狭義のそれらが収まっているとの見方ができるようだ。

 比較的高濃度の建材(一部はカビやダニ)の曝露で発症するものがシックハウス症候群で、建材のみならず低濃度の曝露で発症するのが化学物質過敏症という整理もできる。シックハウス症候群から化学物質過敏症へと移行する患者もいれば、化学物質過敏症であって建材、カビ、ダニに反応する患者もいる。



 濱田さんはそれらの言葉を持たないまま、胃痛と倦怠感を抱え、光が眩しく、心臓がなにやらぐんにゃりするような奇妙で不快な感覚を抱えて耐えていた。

「物がまっすぐに見えないから、刷り上がった広告見て『写植が曲がってんじゃん』って定規当てると、ちゃんと水平なんだよ」

 今でこそ笑い話だが、当時はまるで真っ暗闇の中を手探りで進むような日々だっただろう。

 通勤時間を短縮させるために借りたアパートが、またしても新築。取り返しのつかないほどダメージを負った彼女は、退職を余儀なくされる。現れる症状ごとに病院で検査しても、悪いところがひとつも見当たらない。虚弱という無慈悲な結論と抱えきれないほどの疲労から鬱状態に陥り、地下鉄の線路へ飛び込もうとしていて我に返ったこともあった。ただ一日、座っているだけ、泣いているだけの日々を、彼女の体を蝕むアパートで過ごした。

「でもね、短時間でもいいから仕事を手伝ってほしいと言ってくれる人がいて……」

 別の建物で働くようになると、復調した。

 それでもまだ「シックハウス」は出てこない。この時点では、ただ「なんだか具合が良くなった」だけである。

 なんだかわからないのに具合が悪くなり、なんだかわからないのに良くなった。このままなのか、またいつ悪くなるかもわからない。「わからない」は、人をどれほど不安にさせるだろう。



 契機になったのは、故・高橋元氏との出会いだった。彼女の、その後一生の職を決める巡り合わせでもあった。三社共同の事務所で隣の社にいた彼は、ドイツ国立ダルムシュタット工科大学で学んだ、曰く「ドイツ消費者運動特有の厳密さをもって住まいから健康と環境共生を考える」一級建築士で、エコ建築書籍の翻訳も刊行している。

 ここにきて、ようやく言葉に出会う。そして化学物質過敏症を発症したクライアントが訪れ、症状と要望を聞くうちに気がついたのだそうだ。

「『私もこれじゃん!』って」

 見立ては正しく、すぐに診断がおりた。1996年、患者会もない頃のことだ。病名を掲げて仕事をするようになると、会社の電話が相談窓口のようになった。業務が進まなくなることにも参ったが、こんなに多くの人が困っていたのかと驚いた。

 それから日本におけるシックハウス症候群のパイオニアとして、誰もが健康を損なわずに暮らせる住まいを目指し、「ひと・環境計画」が始まる。その詳細は公式サイトへ譲るが、濱田さんの人生が一変したことは特筆に値する。

「私は体が弱いんでも怠け者でもない。シックハウス症候群で、化学物質過敏症だ!」

 真っ暗闇に光が差した。

 シックハウス症候群や化学物質過敏症を知らず、不定愁訴・虚弱という体質をぶら下げて生きるのは、真っ暗闇の中を彷徨うことである。まさにこの状況こそが闇なのだ。

 彼女は光の元へ這い上がった。

 たとえ出先で体調に異変を感じても、原因を知った彼女は対応できる。日常生活でも対策を講じられる。

 何もかもが変わったという。笑って暮らせるようになったのだと。

 それを語るとき、彼女はまるで重苦しい幼少期を脱ぎ捨て、燦々と春の陽光に照らされているかのような輝きを放っていた。



 そんな彼女でも閉口するのが、柔軟剤なのだという。

 2014年。その日は講演を終え、一人住まいの自宅へと帰るところだった。いつも以上に疲弊していて、何かがおかしいとは道中も感じていた。
 通った道順を頭の中で繰り返す。シックハウス由来の化学物質過敏症だ。講演会の会場だった建物の構造、椅子や机の素材など、そんなものを次々に思い浮かべたのだろうか。しかし抗い難い疲労感で、彼女の意識は途切れてしまう。

 まるで一夜にして「あの頃」に戻ってしまったような不調。
 独特の甘いにおい。街中で、電車内で、ドラッグストアで、飲食店で、ふわっとどこからともなく香るにおい。以前から、感じないでもなかったそれを、その日は妙に強く感じたのだ。体調のせいだったのか、同じ製品を使う人がたまたま大勢いたのか、一人が多用していたのか、今となってはわからないが、それをこうむって、彼女は体調を崩した。

 2013年の経済産業省生産動態統計調査によると、それまでほぼ横ばいだった柔軟仕上げ剤の販売量が前年比で108%、282,337トンに増えている。参考までに、筆者が発症したのは2017年で、この年の販売量は398,154トン。2000年は21万トン程度なので、単純な量だけ見ても、この20年でどれほど増えたことか。

 さらにこの10年ほどでは、香りが強く、長く続く製品がこぞって売り出されている。商品名に掲げられる「香り」や「アロマ」や「フレグランス」。それらがなぜか、一部の人間につらく当たるのだ。



 私たちは食後のコーヒーに移っていた。
「普段はほとんど飲まないんだけど」と、濱田さんはカップを手で包む。「外出先では、たまにね。あのね、私ガチガチにはやってないの。クライアントから小麦粉をやめたほうがいいとか、これを食べるといいとか言ってくれる人もいて、ありがたいし試すこともあるんだけど、何十年もこの体でやってきて、ほどほどでいいと思ってる」 

 不調を受け入れ、病と共存しているのだ、と。

「だってこれは、もう治らないでしょ」

 数十年、病と付き合ってきた。その間、治療を拒んで逃げ回っていたわけではない。あらゆる方策を尽くして出てきた言葉。

 それでもいいのだと、彼女は私をまっすぐ見据えた。

 あの真っ暗闇の日々に比べれば。

「香りの強い柔軟剤さえなくなってくれればね、かなりラクになると思う。だって2014年までは、活性炭マスクなしで外出も旅行もできてたんだもん」


 
 病の、そして発症者の声に耳を傾けるという行いでも大先輩の話をうかがって、店を出る頃には国立の空に日が傾いていた。

 1967年、中央線の国分寺と立川の間にできた新しい駅は「国立」と名付けられた。この地は、全国的にも珍しく駅名が市になったのだそうだ。大正までは一帯雑木林で、このあたりの中心地といえば、昼間「あっち」と指された一橋大学の、さらに南の武蔵野台の崖線下、甲州街道の通る谷保である。

 時代の流れとともに要地が移るように、ものの基準が変わることもある。変わらないものも、後世で変えなければよかったと悔やまれるものもあるだろう。

 ひょっとして、現行の制度や基準に変更を加えるというのは、それそのものが人類の歴史といえないだろうか。などと、大仰なことを語るつもりはない。

 私がこの日思い至ったのは、笑う、ということだ。

 化学物質過敏症を発症することは、つらい。
 息ができなくなるのだ。まるで終始溺れているようなもので、発症者は陸にいながら藁をも掴まんばかりに「呼吸をさせてくれ」と、もがいている。

 その煉獄のような辛苦は疑うべくもあらず、まして批判される謂れもない。私もかつて味わった。

 だが、そうと知らずに苦しみ抜いた濱田さんは、シックハウス症候群、化学物質過敏症という言葉を手にし、正しく診断がおりたことで適切な対処が取れるようになり、「今が幸せだ」と仰る。そんな物語もあるのだ。

 私たちは互いに笑顔で別れた。
 二度と闇に飲まれぬよう、確かな光を胸に抱いて。




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