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アジア太平洋戦争を読む

私の専門は歴史です(一応)。
学位こそ中国史でとっていますが中国史以外も好きです。
もちろん、国・地域や時代によって興味の強弱はあります。

季節ものというわけではありませんが、毎年このシーズンはどうしても先の大戦に関するものに触れることが多くなります。

今年もすでに数冊、読みましたがまだまだ知らないことがたくさんある。
今回はアジア太平洋戦争に関する個人的におすすめしたい本を何冊か挙げさせていただきます。

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『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

定番中の定番です。
著書は学術会議問題のせいで変な形で有名になってしまった東京大学教授の加藤陽子先生。
高校生を相手に行った講義を基に書籍化された一冊。

明治政府の成立から日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、そしてアジア太平洋戦争に至る過程がわかりやすく書かれています。
キャッチーなタイトルですが、昭和戦前期になって突然、軍部が暴走を始め、無能な政府のもとで戦争への途へ突入したわけではありません。
明治から脈々と積み重ねられた要素の結果として、日本は戦争という選択をとった。
積み重ねられた過去との連続の中に出来事の因果関係を求めていく。
年号と単語の羅列ではない歴史の真髄が凝縮されています。
それでいて高校生への講義がベースなので記述が平易で凄く読みやすい。
文字通り読んでいて目が醒めるような本です。
日本近代史の学び直しにも最適です。

オリジナルは単行本(朝日出版社)で文庫版は新潮文庫から出ています。
お好みの方をどうぞ。

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『ふたつの憲法と日本人』

近代日本はふたつの憲法を持ちました。
明治時代につくられた大日本帝国憲法と、戦後につくられた日本国憲法です。
どちらの憲法も一度も改正をしていません。
改正のハードルが高い硬性憲法ではあるものの、これは世界的にみて非常に珍しいことです。

日本では憲法について語るとすぐに「護憲」か、さもなくば「改憲」かという話にされますが、本書はその類いの本ではありません。
日本人が歴史的に憲法というものに対してどのような形で接してきたのか。
大日本帝国憲法以来、なぜ改憲が行われることがなかったのか。
明治政府の正統性を担保する天皇と結び付くことで「不磨の大典」と化した憲法が、日本の歴史にどのような途を辿らせることとなったのか。
もとより矛盾を内包しながらも不可侵の聖典となった憲法の前に、キナ臭い空気を感じながらも軌道修正を阻まれた昭和戦前の日本のリアル。
意外なことに戦時下であっても徴用など私権の制限は憲法によって阻まれていたという事実は知っておくべきです。
その代わりの役割を果たしたもの…国民の自発性に期待する体制の現出は、今日から見ても正直笑えない史実です。

そして、戦後に生まれた日本国憲法。
「護憲」か「改憲」か…そして「解釈改憲」という現実。
憲法は何のためにあるのか?
そして我々はどのように憲法に向き合うのか?
日本人と憲法との関係を歴史的に描いた本です。

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『未完のファシズム』

著書は歴史ではなく政治学・政治思想が専門の片山杜秀先生。
この本が出ていること自体は知っていたものの放置していました。
某所ですすめられて読んだのですが、もっとはやく読んでおけば良かったという一冊です。

第一次世界大戦以降、戦争は前線での軍事衝突だけで決するものではなく、銃後を含めた国を挙げての総力戦・消耗戦となります。
四方を海で囲まれた小さな島国である日本。
工業製品のもとになる資源は少なく、労働力となる人口も限られている。
総力戦・消耗戦を行うのに必要なものを「持たざる国」です。
アジア太平洋戦争で日本が挑むことになるのは豊富な資源と人口を擁する「持てる国」であるアメリカ。

「持たざる国」が「持てる国」とまともに戦争したら勝てるわけがないことは戦争を主導することとなる軍部も理解していました。
ならばどうすればよいのか?
国力の差を非合理的な精神論で埋め合わせようとする軍部は狂気染みているようにみえます。
ところが、この精神論にも顕教的な側面と密教的な側面…すなわち本音と建前が存在していることが指摘されます。
合理的な判断が出来るにも関わらず、狂気の精神論を叫ばざるを得なかった状況は悲劇ですらあります。
(しかし、だからといって軍部の戦争責任が免責されるわけでは当然ありませんが)

ここでまた立ちはだかるのが明治政府によってデザインされた権力集中を許さない大日本帝国の体制。
独裁者と呼ばれる東条英機は本当に独裁者だったのか?
東条内閣の崩壊は、いみじくも日本社会がファシズム化できず、走り出した車を軌道修正するための強力な指導体制を作り出せなかった…未完のファシズムとは言い得て妙です。

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『昭和陸軍と政治』

統帥権の独立…
すなわち、軍部の行動は独立したものであり、政府の方針や決定にすら掣肘されない。
これによって軍部の暴走を招いたとして悪名高いイメージがある「統帥権独立制」。

実はイメージばかりが先行して専門的な研究がほとんどなされていない分野という。
確かに軍部への政治の介入を許さない名分として効力を発揮したのは事実です。
しかし、それと同時に軍部から政治への介入も戒めるという役割も果たしていたという。
史実を具に見てみると、軍部は自分から政治に介入することを戒め、政治から距離をとることに勤めていることがわかる。
しかしながら、軍という組織の存在自体がすでに政治的な存在であるという矛盾。
政治から距離をとろうとする姿勢そのものが政治的な行動になってしまうという統帥権が持っているジレンマ。

東条内閣も政治と軍を一体化させようとしたことによって「統帥権独立制」を根拠に激しい批判にさらされ、大きなダメージを受けます。
昭和の軍部が持っていた政治との関わり方を模索する苦闘は、彼ら自身も意図しない、そして制御不能なかたちで「暴走」してしまう。

軍部の暴走という一言でわかった気になり、絶対悪という先入観を持ってその実態に迫ることを忘れてしまう怖さを感じました。
特定の人物や組織を結果だけで悪と断じてわかった気になっていては、歴史から教訓や反省を学ぶことなど出来ようはずがありません。
ことあるごとに「いつか来た道」「戦時中と同じ」などと言われる昨今の言論人たちに白々しさすら感じてしまいます。

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『経済学者たちの日米開戦』

この本の主役は陸軍によって組織された「秋丸機関」。
一流の経済学者を広く集めた研究機関ですが、驚くべきことに軍部にとって目の敵であるはずの政治犯をもメンバーに加えているということです。
軍部に遠慮することなく戦争遂行のための日本、アメリカ、イギリス、ドイツなどの国力の調査・研究を求められた機関です。
その報告書は見通しの甘い部分こそありますが日米間にいかんともしがたい国力差が存在していることはしっかりと書かれています。
軍部もこのレポートを受け入れ、対米戦争の無謀さは認識していたことがわかります。
では、なぜ無謀と知りながらも対米戦争に突入していったのか。

行動経済学、社会心理学によるアプローチから正確な情報が不合理な意思決定につながったプロセスを描いていく。
日本の国力を過信していわけでも、アメリカの国力を過小評価していたわけでもない。
事実として直前まで戦争回避に向けた交渉が試みられていた。
複合的な要素が絡まり、積み重ねられた結果として日本は無謀とわかっていた戦争に突っ込まざるを得なくなってしまったのです。
正しい情報と判断力があれば戦争が回避できるわけではない怖さ。

読んでいて胸が締め付けられるような思いに駆られ、思わず目頭が熱くなってしまいました。

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