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竹美映画評81 『ライトニング・ムラリ』("Minnal Murali (മിന്നൽ മുരളി)"、2022年、インド、マラヤーラム語(ヒンディー版))

先日観たマラヤーラム映画の『2018』に非常に感銘を受けたのだが、主演男優Tovino Thomasが主演する映画『ARM』の予告編が発表される…とリティク・ローシャンファンのツイートを読んで知った(経由地多いわねw)。

以下が予告編。昨年のカンナダ語映画の大ヒット作『Kantara』を思わせる雰囲気。

既にTovino Thomasのファンになりかかっていた私は、ツイートで言及されていた『ライトニング・ムラリ』を早速視聴。これがまた非常に好みの映画だった(むろん主演が)。

私の人生ベスト映画『皆はこう呼んだ鋼鉄ジーグ』(今、同作監督の最新作『フリークス・アウト』が日本で公開中だって!うらやましい)以降、地味に地元で踏ん張る小さいヒーロー映画が好きでね、まあ大半は、男が好きだから見ちゃってるところはあるんだろうけど、『ローライフ』『ミラージュ』『いぬやしき』、多分『Virupaksha』もそっち系だった(あれは主演サイ・ダラム・テージの持ち味のせいとも言えるが)。

おはなし:

1990年代のケララ州の田舎町、Kurukkanmoolaに住む仕立て屋の若者ジェイソン(Tovino Thomas)は、アメリカ移住して成功して彼女と結婚することが夢。ところがクリスマスイブの日に、彼女が別の金持ち男と婚約したことを知って超ショックなジェイソンを稲妻が襲う!同じころ、孤独に生きる40代の男シブ(Guru Somasundaram)も稲妻に襲われ気絶。二人は超能力を身に付けて目覚める。特にそのパワーを役立てるでもなく、能力を面白がって使ったりしてのんきに過ごすジェイソン。他方村に対する積年の恨みがたぎるシブは次第に暴力性を発揮し始める。

インセル男の悲哀と欲

同じパワーを授かった二人の男が全く違う道筋を通って善と悪に分かれるという物語自体に何か宿命の暗い快楽がある。
悪を身にまとうシブは貧しい「インセル男」なの。子供の頃に、親のいない自分に優しくしてくれたたった一人の女の子ウシャのことをずっと生暖かく思い続けている。40過ぎてもウシャの家の前にしゃがみこんでいるキモい様子が絶妙。ウシャもまた親がおらず、兄貴ダッサン(ジェイソンの父親の店に勤務する仕立て屋)が彼女を守って来た。彼女はシブの思いなんか知らないまんま駆け落ちして、子連れで出戻って来て兄貴の家に住んでいる。兄貴は、だいぶ年上の村の男が彼女に好意を持っていることを知り、結婚してやってほしいとウシャに迫る。大変だったときに助けてくれた恩人なんだと。承諾なんかできないウシャ。男はもう懲り懲りと思ってもいる。しかしウシャとて収入も無いし、病気がちの娘をどうしたらいいかと悩んでいる。本作でウシャは弱い無力な女性として描かれているが故に実はどうしたかったのかは最後まで不明(と私は思う)。
シブは、ここぞとばかりに超能力を使って銀行からお金を盗み出して彼女の窮地を救う。彼としてはこれで彼女に接近できるわけね。お金の問題が片付いたら次に邪魔なのは何だろう。或いは誰が自分の恋路(ウシャの、ではない)を邪魔しているのか。シブは欲がエスカレートしてしまうんですね。選択肢の無い女性の窮地に付け入るシブってどうなのっていう観客の気持ちを揺さぶりつつ物語が進行する。気の毒な男でもあり、かといって、やったことはやったこととして罪を償うつもりがなければやっぱり共感しにくいが、でも一抹の哀れみが残るのである。そこで彼が悪に振り切れてくれると、我々は免罪されたような気持ちになる。

いやはや、「インセル」という概念がもたらした思想教化的影響も計り知れないね。インセルという言葉で理解できた(後から修正。最近消し忘れ多い)こともある一方、却って物事を捉えにくくなってしまった。決していいことではない。

村の哀しい知恵と集合意識の暴発

善のヒーローを象徴するジェイソンは、お店に隠しておいたお金をある人物が盗んでしまったことを知ってひどく怒るのだが、父親に「許してやりなさい」と諭されるのがちょっと拍子抜け(お金盗まれたら返せって思うだろ普通…)。そして、ジェイソンもちょっと考えてから許す気になっている。

この発想は日本人の作品からは出て来ないだろうなーーーと思った。ジェイソンと父親とその人物の関係にもよるだろう。そして、インド映画の村コミュニティーにおいては、警察は全くあてにならないばかりか威張ってばかりで弱者をいじめる存在として描かれ(ただし本作含め最近観るインド映画が警察の不在や不正も含めた村のことを全てかなり過去のこととして描いている点は注目に値する)、ジェイソンが超能力で警察官をぼっこぼこにするところで皆が留飲を下げる。そんな状態な上に、貧しくてそこから離れることも難しい。やむを得ず、村の中で許し合い、できるなら助け合うしかないじゃないかという哀しい知恵が見えた。

「盗み」を徹底的に罰する快楽が村の結束を強めると描いた木下恵介『楢山節考』とはまた異なる見せ方である。しかし一方で、インド映画の村には必ず「絶対許せない集団ぶち切れライン」があり、火がつくと焼き討ちにになる(『Virupaksha』はそういう部分を抉った映画。脚本書いたスクマールの慧眼か)。尚、シブはそうした村集合意識の攻撃のターゲットにされる。繰り返し人への赦しを説く一方で暴れ出すと手が付けられないというインド的な村の二つの顔が見える。

父と息子のもののあはれではあああああん…(ネタバレありよ)

さて、インド映画のうまみ成分と言えば、父と息子もののあはれ描写!!!これが無い娯楽インド映画ってあるのかって思う程!!!

疑似フェミニズムの思想教化を受けた私の頭には「家父長制」という単語がちらつくんだけど、家父長制って…物語としてはおいしいの!!!!!!フィクションなんだって分かってればね…ゴゴゴゴゴ現実には体験したことないしさ。父親の嫌なところばっかり似ている自分にがっかりする40代よ。

作中、パスポートの取得を警察署長に邪魔された(職権乱用は朝飯前な地元警官たち!インド映画ねえ…)ジェイソンを前に、署長は残酷にも、ジェイソンの本当の父親は舞台役者で、冒頭で描かれる花火倉庫の火事で死んだと告げる。仕立て屋の父は義父だったの。そこがまたさーーーーヒーロー映画の醍醐味でさーーー!!!おいしいったらないのよ!!!!!

父親(Tovino Thomasが演じる)は舞台役者で、次回作の脚本がスーパーヒーローもので彼がヒーロー役。タイトルが本作題名と同じ『Minnal Murali』だったのがまたおいしい。火事のショックで記憶を失くしたジェイソンが、父の理想と、芝居と人生を通じて示した「無私の心」に触れ、自分もまた与えられたこの超能力を使って人々のために生きねば…と思い立つところが尊い!!!
これはヒンディー語のヒーロー映画『フライングジャット』でもあった展開。

ヒーローの力を得たことで、死んだ父親のシーク魂を自分も生きるんだと決意したアマンが本当のフライングジャットになる熱い瞬間だ!これもよかったなー。家父長制の力を見よ!!!!しかもインド国家の宇宙進出のシンボルまで担っているし。

とにかく、インド映画においては色々な形で亡き父親の想いを息子が今受け継いでセーラースマイル!奇跡を起こすのセーラースター!!(父と息子だけど…)

私のバイブルだった『皆はこう呼んだ 鋼鉄ジーグ』では、アレッシアが超能力を得てもケチな強盗でいるエンツォに対し、「皆の友達にならなきゃ」「皆の人生を想像してみて」「いいことをすれば、胸がいっぱいになるわ」「皆を救って、ヒロ」と何度も何度も呼びかけ、過ちを叱咤し、最後に「あんたならジーグになれる(=Tu che puoi diventare Jeegというこのセリフが主題歌の歌詞の引用でまたはあああん…)」と言い残すところ等等がよみがえるわけよ!!!

家父長制的な影響の強い社会を背景として、その悪の側面を「アマソの剣」として描きつつ、孤独の底で生きる二人が藻掻く様がもののあはれを呼んでいる映画なのね。アレッシアは、そうした社会の悲惨さを嫌という程知り抜いており絶望していたのだが、もう一度理想の世界を夢見ることを思い出させてくれたエンツォに全ての望みをかける。エンツォもまた、現実に絶望し、夢など持っていない空っぽの男で、アレッシアがその空白を埋めてくれたことに気がついていく。そこのプロセスが熱いのよ…あああん(私のため息で台無し)

…全然コンテクスト違うのに、私の中では同種類の何かとして消費される。

結局映画鑑賞の意味って、自分の「はあああああん…」体験を他の作品に見出す喜びが大半なのかもしれないね。失われたあの気持ちをもう一度呼び起こしたいって…どこか悪魔的でよこしまな意図がこそが映画ファンの業です!!

最後に二人のヒーローが激突するシーンは正統派ヒーロー誕生物語できもちよく見ることができた。また、善が悪を倒したときの表情にも誠実さを感じた。最後のカットは『皆はこう呼んだ』がエンツォの超かっこ悪いのにかっこいい後姿だったのに対し、こちらはかっこよく終わってくれる。

やっぱり本作いいなあああ…何が?ライトニング・ムラリの顔が

一つ思ったことは、はるか遠いアメリカへの憧れが何度も語られ、そこに憧れるジェイソンのいで立ちを奇異な目で見る村人が対比されるシーンがある。我らの村にもアメコミ的ヒーローをという願い自体が何らかの代理満足的だ。と同時に、警察なんかあてにならん村にヒーロー=守護神がいて欲しいという発想にはインド的なものを感じる。実際本作も超能力を授けた稲妻は宇宙の意思のランダムな恵みとして読める。

本作を現在の物語ではなく、過去の物語として語るということは、現代インドにおいて何かが大きく変化したという実感が感じられる。これはどういうことなのか。他の映画を観る上でも注視したいポイントだ。


加筆:
あまりに男の話しかしていないので、本作のもう一人の副主人公を紹介。それは、村のマーシャルアーツの先生、通称「ブルースリー」、ビジュという女性。彼女がなかなかいい味出しているの。ビジュの元彼がジェイソンの元カノと結婚して正直面白くない気持ちでおり、結婚式の招待状を持ってきた元カレをぶっ飛ばす。ジェイソンが変装して警察官をぶちのめすところで、彼女も立ち向かうがあえなく敗退!だがちょっとそこで彼女は面白い表情していたのよね…。その後、ジェイソンの正体を知って協力者になっていく(あれ、あんただったのね?!ボグッ!)。最後、彼女もまた自力で村の危機を救っているのも見どころね。

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