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ソーシャルスリラーとホラー映画から見る現代社会 ⑦アメリカホラー映画の立役者、悪魔

悪魔映画のアメリカ

アメリカのホラー映画を考えて来た中で、LOVEや善に対置される存在、「悪魔」は、非常にユニークで、物語の中でも重要な役割を果たしていると思い至った。今回はアメリカ映画の中の悪魔について考えてみたい。

一見幽霊映画の『パラノーマル・アクティビティ』は、後半でドアの向こうにヤギの蹄が見えるシーンで、怪異の正体が幽霊ではなく悪魔だったことが明らかにされる。アメリカでは、幽霊よりも悪魔の方が圧倒的に力強い。また悪魔は、悪魔崇拝や魔女など、続編を展開させる上でも都合が良い。アメリカのホラー映画の中で、悪を一手に引き受け、観客と主人公の善を結びつけるために重宝されてきたキャラクターだと思う。私の好きなシリーズ『ポルターガイスト』三部作は、驚くことに宗教的な意味での悪魔要素が殆ど無い。第一作目の外宇宙系SFから怨霊ホラーに流れた珍しいケースである。

悪魔の存在が歴史的にはどう見られてきたのかと考え、アメリカの昔話について少し読んでみた。ベン・C・クロウ著『アメリカの奇妙な話1 巨人ポール・バニヤン』を監訳した西崎憲は、解説の中で

イギリス人、フランス人、ドイツ人、アイルランド人などにとって、アメリカの気候や動物、植物、インディアンなどは真に驚嘆すべきものと映った。入植の時期に残された文献は多かれ少なかれ、新世界にたいする畏怖の念を伝えている。そうした畏怖の念は熱心な清教徒の心性にはことに甚大な影響を与えたようで、ニューイングランドに入植した清教徒たちは、同地を神の地だと考え、さまざまな災厄は神が下す審きだと見なした。また、インディアンの魔術や神話を悪魔がいる証拠だと考え、インディアンたちとの戦いを悪魔との戦いだと考えた。(329ページ)

と評している。清教徒は旧世界を見下しながら、追い立てられて、或いは進んでそこを離れて来た人々である。この人々の宗教的意識の高い持ち方(今で言う、一種のWokeである)が国是に織り込まれている。また、何度か言及してきたアメリカホラーの構図、モンスターと「正常」の線引き=差別の感覚は宗教及び国づくりの物語と結びついているのだということを念頭に、清教徒の入植者コミュニティを描いた『ウィッチ』ではどう描かれていたか。

同作は、ニューイングランドの入植地共同体から追放された一家を襲う怪異を描く。入植地で共同体を追われるということは致命的な処罰だ。自然環境や先住民などを神が下す災厄や悪魔の脅威として捉え、常に恐れているというストレス環境に、家族だけで取り組まねばならない。宗教的体験としてはより神に近づき、その分選民意識も高まっていくであろうが、そんな高ストレス環境で何かボタンの掛け違えが発生すれば、人は一気に狂気になだれ込んでいく。選民意識の強い清教徒が最も恐れていることは、既に自分たちは悪魔の計略に落ちているのではないかという疑念なのだと思った。アメリカという国は、選民意識の強い人々から始まっている以上、基本的には排他的である。皮肉にもそうした選民意識の驕りを突くのが「悪魔」なのかもしれない。同作の監督ロバートエガースは『ライトハウス』において、高ストレス環境下でホモフォビックな男性同性愛者を自らの真実に対峙させた。その意味で相手の男は悪魔である。また真実と対峙した結果解放されるどころか破滅したと描くのが、最新流行の男性同性愛者の描き方である。そこで悪魔が使われる。何故か悪魔は何でも知っているのだ。

悪魔は秘密を知っている。

悪魔と愛の対決を描くアメリカ映画は、宗教保守的な価値観、特に家族の価値に同調する傾向がある。『死霊館』シリーズのウォーレン夫妻の愛は如何にも古典的である。したがって、ソーシャルスリラー的なあり方に慣れた観客…宗教保守的な家族は抑圧の場なのだと考えている人にとっては今一つ面白味に欠けるかもしれない。そういう人は、一見幸せそうな家族を撹乱する悪魔に同調してみてほしい。そのとき、あなたは悪魔の顔をしているのであるが、アメリカの悪魔は、登場人物たちが画面上に表現している愛の絆について疑念を提示し、人物たちの別の顔を露出させ、困らせるという習性を持っている。悪魔はなぜかいつも人々の裏の秘密を知っているのである。

『ダーク・アンド・ウィケッド』(2020年)は、お馴染みの悪魔と家族愛の対立構造を持ちながら、家族の愛が敗北する作品である。個人的な体験から来ているような寂しい手触りのする物語だ。

物語は、父親が重病で倒れ寝たきりになった実家の農場に、息子と娘が帰って来るところから始まる。父親を介護をする母親は彼らに冷たい態度をとり、「直ぐに帰れ」と言う。そして奇行を繰り返した挙句、ある朝母は自殺してしまう…というショッキングな話である。

私は、果たしてこの家族は本当に一緒にいた方が幸せだったのだろうかと疑問に思った。母親の奇行と自殺は悪魔が原因だという説明は表面的に思われる。家族同士、互いに見たくない素顔を見ずにやり過ごすことだって、それぞれが幸せに生きる方法の一つだ。病で臥せっている父親が早く亡くなっていたら、家族の素顔は隠ぺいされたまま、ただ父の逝去を悲しみ、家族の頼りないがそこにある愛を再確認して、別れ別れになっても互いを思いながら生きられたであろう。思い合っていても一緒に過ごさない方がいい家族もある。しかし、この父親が死なない!悪魔が延命したとしか思えない。介護とは苦痛の連続だ。

悪魔のせいなら、仕方ない。

兄妹が本心では実家に近寄りたくなかったということを、母親は知っていたのだと思う。そんな本音を察知している母親は、悪魔に取り憑かれているに違いない。何故なら彼女の考えや言動は、アメリカの大事な価値である家族のLOVEに対する疑念だからだ。

一家の破綻を免れるには病人が早く死ねばいい…冷たいがそれは一つの可能性だ。でもそんな考えを認めるくらいなら、私が死んだ方がまし。でも子供たちは死んでほしくない。だから家から離れて欲しい。母親はそう思ったのではないだろうか。数々の奇行も一世一代の演技かもしれない。木下恵介監督『楢山節考』のおりんだって、自ら歯を石で傷つけ、歯が抜けたぁ〜と喜んでみせた。あれはホラーだ。正気だからこそ悲しくて怖い。

物語が進むにつれ一家は次々に死んでいくが、悪魔はこの家族の破綻に一つの理由を与える。「私たち一家は悪魔のせいで破滅したのであり、私たち自身が人としてダメだったわけじゃない」と納得して死ぬことができる。奇妙な形だが破滅を受け止めることができる。私にはそういう風に考える明確な理由がある。

悪魔は堕天使であり、天使の一種であるが、天使がもたらす神のメッセージというのは、人間にとっては想像を超えた恐怖である。天使がこの一家に伝えるメッセージが、悪魔に淫した者は地獄行きだというのなら、本当に救われない。

『魔鬼雨』(1975年)などの七十年代オカルトホラーにはその非情さがあった。かようにアメリカの清教徒的な真面目さはどこまでも人に厳しい。全く助けてくれない神のために人は自虐的なまでに敬虔であろうとする。

何故悪魔は現れる?

悪魔映画の中でも最も人気のある悪魔祓いジャンルは、絶対的な悪に対抗する人間の側の苦悩や困惑、恐怖と嫌悪が描写のメインとなり、それらに打ち勝つことで爽快感を得る。

そもそも悪魔はなぜ現れるのだろう。『エクソシスト』(1973年)では、なぜこのような少女がひどい目に遭わされるのか、というカラス神父の問いに、我々の神への信仰を試すためだと先輩のメリン神父が回答している。キリスト教徒ではない私は敢えて異論を提示したい。嘘や偽善を暴きたいという人間の欲望が悪魔を呼び寄せるのではないだろうか。或いはその欲望が悪魔である。

『エクソシスト』は、少しだけ隙間風の入っている家族(の大人)を罰するように悪魔(少女リーガンの中に入った異物)が暗躍する。また、『ダーク・アンド・ウィケッド』同様、重病者を介護する家族の悲しみと恐怖と嫌悪と苦痛が伝わってくる上、カラス神父の個人的な悩みも色濃い。悪魔は人間の苦悩を嗤い、からかい、嘘を許さない。人間は選ばなければならなくなる。悪魔を祓って秘密や嘘を守り通すか、その秘密や嘘を認め、怖がることを止めるか。『エクソシスト』の悪魔は二人の神父の努力により去るが、マクニール家の闇は去っていないはずだ。何故なら、秘密を暴く存在を悪=「異常」=モンスターとして退けたことで母クリスが安心しているからである。彼女にとって都合の悪いことを隠ぺいした形で「正常」な生活が再びつづくのだ。

悪魔祓い映画を日本の『来る。』と比較してみると悪魔の性格がもっと分かるかもしれない。同作に出てくる日本的な祟り神や妖怪は、必ずしも悪ではなく中立的な存在である。また、大家族の中に構成員たちの積年の不満を吸い込んで膨らんだ「呪い」が脈打っている点が日本らしい。妖怪や、被害も恵みももたらす神よりも明らかにタチが悪いのは人間の方であるという洞察がある。

同じ年に公開されたアメリカの『へレディタリー 継承』(2018年)は、裕福な核家族の崩壊を描き、悪魔であるペイモンが救世主のように現れる。アリ・アスター監督による天邪鬼的なユーモアだ。が、よく考えると諸悪の根源は祖母の欲望であり、実は魔女映画として終わっている。鷲谷花氏は同年のリメイク作『サスペリア』(2018年)と共に、同作は、フェミニズムが勝利した後の世界に対する恐怖を表現した作品と評した(「恐怖のフェミニズム 「ポストフェミニズム」ホラー映画論」『現代思想 三月臨時増刊号』、青土社、2020年2月、94ページ)。同作での男性の無力さ、役に立たなさを見ればそうかもしれない。依然アメリカでは魔女は悪として描かれているということであろう。一方で、前も書いた通り、魔女の力は女性のエンパワーメントでもある。女性が男性を恐れる理由とは別に、男性は女性を恐れるのだと思う。

悪魔映画あれこれ

悪魔という存在は、日本文化で育った私にとっては理解しにくい。悪魔憑き・悪魔祓い映画は、スペイン語圏や、最近は韓国映画でも人気のテーマとなっている。文化の中にキリスト教が根付いているため、観客にとって理解しやすいのだと思われる。主に悪魔と人間の戦いを中心に描いており、その勝敗が物語の中心をなしている。LOVEにはアメリカ映画ほどの力点が置かれていないように感じる。

韓国のホラーは、シャーマニズムや仏教、新興宗教も積極的に描いている点が興味深い。他方、『ヘルレイザー』(1987年)、『ミッドナイト・ミート・トレイン』(2008年、北村龍平監督)や『キャンディマン』原作者、イギリスのクライブ・バーカーの作品に登場する悪魔は、アメリカ映画に登場する悪魔とは一味違ってどこか間抜けだ。世界の怪談は、妖怪や悪魔は、自分が強いと思っているためにすぐ隙を見せ、人間に隙を突かれて退散する存在として描いても来た。

一方アメリカやムスリム諸国の悪魔祓いホラーは宗教保守ホラーと言ってもいいと思う。アメリカの悪魔祓いホラーが神に対する緊張感を残しつつも、LOVEの力に接近することで世俗化をしてみせた一方、ムスリム諸国の悪魔祓いホラーは、人間の男性と男の悪魔の戦いが展開する。マレーシアの『ムナフィク2』(2008年)の過酷さ。たった一つの神の前で自らの敬虔さを証明する厳しさ。私にはその緊張感が無い。

無論、現実の社会において敬虔な態度が一貫して実践されているかは別の話である。ちゃんとできていないからこそ神や悪魔が怖いのであろうし、何かをスケープゴート(まさに神への捧げ物だ)にする必要に迫られる。概ね、マイノリティや地位の低い者が選ばれることになる。

『エクソシスト』は、宗教保守主義を体現するはずの作品だった。監督も脚本家も宗教的な価値を尊重する作品にしたかったようであるが、できあがった作品は、色々な要素がありすぎ、宗教保守性と、それと全く相容れないような要素が満載の興味深い作品に仕上がった。

ちなみに同作原作者・脚本家のブラッティ自身がメガホンをとった『エクソシスト3』(1990年)の感触は、ムスリムの悪魔祓いホラーと似ている。男性が男性によって苦しめられ、男性の自己犠牲によって物語が完結する。

皮肉にも、リベラルな価値観から遠そうな宗教保守ホラーの中に、今のリベラルな価値観のトレンドである、男性の処罰がはっきり描かれている…と見るのは映画の見過ぎ、考え過ぎだろうか。

さて、悪魔を祓うというのはどういう意味なのだろう。『ダーク・アンド・ウィケッド』や『エクソシスト』、更には認知症の老婆に悪魔が憑いた介護地獄映画『テイキング・オブ・デボラ・ローガン』(2014年)等、面白い作品が次々と生まれて来たが、悪魔は、嘘を見破り真実に直面させる一方、「悪魔のせいなら、無罪」という傑作な副題を持つ『死霊館』最新作が指摘する通り、悪いことは悪魔のせいにして、次に進んでいくことを可能にしてくれる。或いは、魔女のせいにして、魔女だとされる女性たちを火あぶりにすることで、初期のアメリカは一つ前に進んだ。

この点がソーシャルスリラーと似ており、アメリカ社会は必然的にモンスターを作り出して最初は厳しく排除した後、後から取り込もうとする。或いは、超自然的な領域に悪を押し込めることもできる。そうでなければ結束が保てないのかもしれない。銃との関連を分析できていないのでよく分からない、ということにしておく。

悪魔祓い映画『NY心霊捜査官』原作の『エクソシスト・コップ』を著したラルフ・サーキ(本当はサーチという発音が近いようだが)は、著書の中で、悪魔に憑かれた者自身に、悪魔は自分の一部ではない、と認めさせることが悪魔祓いの重要なステップであることを書いている。故に、「みんな、悔い改めた罪人に弱い」というセリフをいたずらっぽい顔で言う『シカゴ』(2002年)のフリン弁護士は、悪魔的だ。また同性愛者として見てもいい。悪魔と同性愛者の親和性について考えても面白そうな気がする。

ハリウッドの有名な俳優で、過去にアジア人への悲惨な暴行で逮捕されていたり、実際に服役した人もいる。スポーツ選手達もなかなかの経歴だ。そういう犯罪者たちに大金を掴ませ、何とかこの社会の「正常」の中に取り込んで利用するアメリカシステムは合理的ではある。一方、日本人の考え方は、そのような形で区切りをつけることをよしとしない。『来る。』の夫は祟られて死んで当然なのであるし、映画では欲望に憑かれた妻も処罰されなければならないのである。悪魔のアメリカと、祟り神の日本。それぞれの超自然的存在は、我々の中にあるあまりよろしくない部分をそれぞれの文化に根ざした方法で監視している。

さて次回は、アメリカのホラー映画を中心に、ホラーがモンスターを必要とする以上、排除や差別と切り離せないのだという点を踏まえて、アメリカのホラー映画の陰謀論的な側面について述べたい。これはアメリカ映画が大好きな私自身の陰謀論志向について考えることでもある。また、アメリカのホラーのメインストリームとは別に、悪を自分と切り離さずに対決し、時にはそれを飼い慣らし、自分の中に取り込んでいくタイプのホラーについて考えてみたい。もしそれが今必要だと言うならば、差別的な側面を無視せず、それを娯楽として楽しみながらも、よりインクルーシブな思考法を提示するホラージャンルの力に…着地できればいいと願っている。

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