僕の3.11
2011年3月11日
当時僕はお笑い養成所、目黒笑売塾に通っていた。
数日後には卒業ライブが迫っていた。
そのライブで事務所に所属が出来るかどうかが決まる。
そんなとても大切な日だった。
僕は学費の40万を分割にしており、
それを卒業と同時に完済すべくアルバイトを二つ掛け持ちしており、
夜は沖縄料理屋、昼は和食屋で働いていた。
どちらも場所は渋谷であった。
その日はランチのバイトで和食屋に入っており、
朝の苦手な僕は眠い目をこすりながら黙々と働いていた。
もう少しネタをよく出来るのではないか、
もっと良い見せ方はないか、
そんなことを考えながら働いていた。
ランチは15時までで、ラストオーダーも終え洗い物をやっていると突然大きく揺れた。
僕は地元が鹿児島で、比較的地震の多い地域だった。
それまでも何度か東京に越して来て地震には遭遇したことがあったが
地元のそれに比べると特に心配するほどでもなかったし、
何か被害があったという話も聞かなかった。
しかしこの時の揺れは明らかに今までのそれとは違った。
「死ぬ」
と思った。
僕は皿を洗う手を止め冷静に周りを見渡しどこか身を守れるところは無いかと探したが、
キッチンにそんなところはなく、
揺れが治まるのを待つしかなかった。
恐らくガスの元栓を切るなどをしないといけなかったのだろう、
しかしそんなことを思いつく事もなく
小学生の時の防災訓練で習った「机の下に隠れましょう」しか僕の頭には無かった。
少し経ち揺れは治り、店長がやって来て夜の営業がなくなったことを聞いた。
そのまま被害のなかった僕らは夜に使う予定だった食材を使って賄を食べた。
普段食べれないものばかりで「嬉しい、美味しい」と
呑気に腹を満たした。
16時くらいに店を出て外に出ると隣のヤマダ電機に人だかりが出来ていた。
なんだろうと思い見ると皆テレビを見ていた。
テレビには荒れた海が映っていた。
僕は
「あれだけ大きい地震があったんだ。波もそりゃあ荒れるだろう」
と思った。
そのまま美容室に行って髪を切った。
当たり前に客は僕しかいなかったが、美容室はやっていた。
店員と呑気に地震凄かったですねと会話をしながら髪を切ってもらい、
僕は駅に向かった。
渋谷駅は電車が止まり人がごった返していた。
いつ再開するのかも分からず、仕方なく僕は歩いて家に帰ることにした。
当時は旗の台というところに住んでいて歩くと2時間近くかかるが仕方なかった。
周りの人も歩いていた。
途中気になっていた服屋に入った。
良い商品が並び、良い店を知ったなぁと、僕はずっと呑気だった。
道路は渋滞、歩道は歩いて帰る人で一杯。
色んな会社はストップし、早めに仕事が終わり帰れなくなった人たちは飲食店で酒を飲んでいた。
どこの店も一杯で、
皆幸せそうに酒を飲んでいた。
普段全然入っていない中華料理屋もこの日は客がごった返していた。
帰宅難民という言葉を僕はこの時知らなかった。
ようやく家に帰り着き中に入ると、
戸棚は開き、そこから落ちた食器は割れて散乱していた。
電子レンジまでも開いてて中の皿も落ちてバラバラだった。
テレビをつけると電気屋で見た荒れた海がまた映っていた。
僕はそこで初めてそれが津波に飲み込まれた町だと知った。
呑気に荒れた海だと思った光景がそうではないと知った瞬間だった。
幸い、と言うべきか。
僕には東北に住む親戚、友人、知り合いはいなかった。
両親からの連絡も「特に何もなく大丈夫だった」との一言で終わった。
「明日からどうなるのかな」と漠然と思いながら寝た。
卒業ライブは決行されたが「不謹慎」ゆえ大きく告知は出来なかった。
僕らはやるしかないとライブを行なったが、講師も「余震が怖い」とその日は来なかった。
ある芸人が効果音でアラーム音を使ったのだが、
それも「地震があったと皆んなが思うから」と音を小さめにすることを余儀なくされた。
街は節電入った。
外灯は消え、自動販売機も止まった。
誰かがする事為すこと全てが不謹慎になり、
自粛ムードに入った。
外食は不謹慎だと言われた。
飲食店からは客が消えた。
僕の働いていた和食屋は1ヶ月ほど店を閉めると言い、
沖縄料理屋は客足が途絶えたため支店を閉めた。
あの時幸せそうに呑んでいた客はどこに行ったのか。
店は社員の生活を守るためにアルバイトを切った。
溢れた社員がバイト先に来たためアルバイトはシフトに入れなくなったのだ。
一緒に仲良く働いていたバイトの子は
「放射能の件もあって親に帰ってこいと言われた」
と言って実家に戻った。
僕はこの時働き口も、数少ない友人も無くしてしまった。
守られないものだなぁと、自分の状況も国の状況も憂いた。
今また色んなことがウイルスのせいで自粛を余儀なくされている。
これはいつまで続くのだろうか。
色んな生活がある。
早く終息することを、切に願っている。