「アンチャンティー」4

 角をひとつ曲がると景色が開けた。低い家々の屋根の向こうに、ゆったりとした河が横たわっている。今年の夏は雨がすくなかったこともあって水量こそ迫力に欠けるが、それでも対岸が遥か彼方の蜃気楼のように見える大河だ。

「今年は貯水槽も空っぽだな。ここまで晴れが続くのはずいぶんと久しぶりじゃないか」

「おかげで一時、役所から節水勧告が出たよ。まあ、この町の住人なら両方の河から勝手に水を汲んでつかっていたけどな」

 この仲町はふたつの河に挟まれた中洲の上にできあがっている。そこに立つ建物の多くが東西から来る湿気や水害などに侵されることを前提につくられているため、どの家も基礎となる土台が高く、狭い土地を有効利用しようと上へ上へと増築している。その結果、対岸から見ると、仲町全体が工業地帯かのような不可思議な景観をしているのだった。

 抜けの良いこの高台からならば、晴れてさえいれば正面に富士山が見えるのだが、生憎と、かの霊峰は雲によって隠されてしまっていた。富士山よりもっと手前の、対岸の大病院ばかりがその白い体躯いっぱいに太陽光を浴びて眩しいくらいに目立ってしまっている。

 左手側の石段を何十段も下ったところに目的の店があった。裸電球の代わりにイカ釣り漁船から譲ってもらったという集魚灯を軒先に吊るした八百屋だ。なんでも店主のおじさんが月一でイカ釣りに出向くらしく、八百屋のくせに、玉ねぎや椎茸などのすぐ隣に新鮮なスルメイカを並べている。

「なんだ、この店は。イカがニンジンを抱いているではないか」

「おじさんが福島出身だからな」

 そういうものか? といぶかる打謳を捨て置いて、降りてきた階段を見上げる。対岸の病院は六段目を降りたら見えなくなった。帰りは違うルートで、すこし遠回りして帰ろう。

「しかし驚いたね。こんな町にも八百屋があるとは」

「八百屋もかまぼこ屋も地上げ屋もいるさ。なんたって絵貸し屋がいるくらいだからな」

 遠回しの悪態をついたつもりだったが、打謳は気にしたそぶりもなく、絵貸し屋はもっとも崇高な活動のひとつさ、なんたって芸術作品が日の目を見る機会をつくり出すと同時に、継続的な支援金を確保するという重要な役割を担っているのだからな! と、またいつもの戯言を述べて満足そうに鼻を鳴らした。

「やや! 小滝くんじゃないか! もうレモンを使い切ったのか」

 しゃがれた声で客引きをしていたおじさんが私たちに気づいて寄ってきた。集魚灯の輝きを受けて頭皮が白飛びしているように見える。

「なんと! なんて見事なハゲ頭だ!」

「おい失礼なこと言うんじゃない! あれはタコ頭って言うんだ」

 打謳の失言も、度量の広いおじさんは豪快に笑って流してくれる。

「ところでおじさん。レモンはまだあるかい」

「おうよ。小滝くんが買いにくるだろうと一ケースとってあるよ」

「それはありがたい」

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