「アンチャンティー」3

 本棚の一角から財布を抜き出し、中身を確認する。先日の給料日に入った八万円のうちの二万円が雑費として納められたこの財布も、かつて母が卒業祝いに贈ってくれたものだ。

「物持ちが良いのだか出無精なのか。きみは何年経っても変わらないねぇ」

 打謳が立ち上がる。どうやらついてくるつもりのようだ。まぁ、このまま部屋に居座られて勝手気ままにアトリエを荒らされても堪らないから、ついてくる分にはよしとしよう。

「私はものを大切に扱うことで有名な男だ。洗濯、アイロンは当然として、
拝む、祭るまでこなしてしまうのだからな」

「さすがは変な街きっての変人だ」

 ずいぶん失礼なことを言ってくれる。繁華街の裏路地にひっそりとたたずむ違法キャバクラでキャッチをしていそうな風体をしているくせに。

 玄関の扉を開ける。雑居ビルディングの窓に反射した光に容赦なく瞳を貫かれた。アパートの外廊下は北向きのくせにやたら明るい。それは欄干の向こうにそびえるビルディングの無駄に大きな窓が南からの陽光をはね返すためだ。どれくらい大きいかというと、八万円出せば個人でも丸一日借りられるミニシアターのスクリーンくらいの巨大さだ。これをはめ殺した内部は社員食堂にでもなっているのか、いつもスーツを着たマネキンみたいなひとたちがトレーを掲げながら右往左往している。まるでトレーを教えの中心にそえた新興宗教だ。トレー教と名付けよう。

「なにをしている。早くいこう」

「落ち着け。あまり急くとトレー教徒に見つかってしまう」

「トレー教徒? なにそれ」

 首を傾げる打謳を尻目に、下り階段へと向かう。道中通り過ぎる部屋のいくつかは扉が開け放たれている部屋もあって、一室では、私と同じ芸術家が全身にペンキを塗りたくって巨大なキャンバスに突撃していく様子が、また別の一室では、ベジタリアンの女性がリビングにこしらえた畑からサツマイモを引っこ抜く姿が、はじの角部屋に至っては、うら若き男女が事に及んでいる様子が垣間見える。打謳の言う私の変人度合いなど、この街の住人に比べれば月とスッポンだ。

「いや、それを見て平然としていられる時点で、きみも立派な変人だよ」

 男女の交わる様を凝視しながら涎を垂らす打謳の頭頂部に、口のはしを手の甲で拭いながらチョップをかます。
「ひとさまの家を覗き込んで鼻息を荒くしている変態に言われたくない」

 打謳の襟首を引っ張って階段を下る。後ろ向きで器用に階段を下る打謳が、まて、蓮太郎、転ぶ、首締まっている、苦しぃ、死ぬ、と喚いているが、構うものか。

 こんなところで時間を食っていたら日が暮れてしまう。なにせこの仲町では、あれぐらいの光景は日常のことだ。アパートの正面玄関では五体投地してカタバミに祈っている男がいるし、道中の自動販売機では何を買おうか中腰になったまま小一時間悩んでいる学生もいる。要は私が変なのではなく、この町が変なのだ。

「まったく、いつ来てもこの町は変なのしかいないな」

 となりで打謳がぼやく。川向うに住処を構えているというのに、なにを血迷ってこんな迷宮に踏み込んで来るのか。打謳曰く、面白い芸術家は面白い町か、退屈な町のどちらかにしか住んでいない、のだそうだ。

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