「アンチャンティー」

 まどろみから浮かび上がる途上において、まずペトロールの匂いが鼻をつく。次いで目に飛び込んでくるのはネストテーブルの上に転がっている果物だ。完璧な計算のもとに生み出された紡錘形のボディーがぽつりと灯った希望のように黄色い。そのかたわらで、いまにもすべり落ちそうなパレットの上にある果物ナイフと先のぼさぼさになった筆が、私の指によって取り上げられるのをいまやおそしと待っている。

 丸くなった背筋をゆっくり伸ばしていくと、胸椎の七つ目か八つ目あたりで小気味の良い音が鳴った。ふぅんっ、と両手を頭上に伸ばして肩肘を鳴らし、腰をひねって腰椎を鳴らす。首を回す段に至っては、私はもうプロフェッショナルと言って良いだろう。回す、振る、傾ける、痛める。このすべてにおいて私の右に出るものはいない。殊の外、振るに関してはそこらのヘッドバンキングを趣味にしている熱狂的なパンクロッカーも驚くことだろう。彼らほどの見事なトサカこそないが、一分間に何回バナナの木に頭突きできるかのギネス記録に挑んだ私に並べるのは、きっと北海道のキツツキくらいだろう。

 なんの気なしに壁に設えられた本棚を見上げる。

 どこかに石川啄木の全集があったと思ったのだが、目についたのは棚の上の壁掛け時計だった。

 二〇分ほど眠っただろうか。昼食にサーモンのライスボールを食べてから妙な満腹感に悩まされたことだけを覚えているのだが、それもいまやどこへやら、目の前のレモンを両断して、その片方をジョッキに突っ込んで、ハイボールとソーダ水をそそぐ程度には腹に余裕が生まれたらしい。

 さわやかなアルコールでもって喉を潤し、キャンバスに向き直る。ネストテーブルの小さい方におかれたグラスを新たなアンチャンティーで満たし、その上で、もう半分のレモンをそっと絞る。

 クエン酸の雫がアントシアニンの青に波紋を落とすと、グラスの底に深い青を残したまま水面付近だけがふわりと花やぐような紫へと変化しはじめた。

 この一瞬の不思議をそのままキャンバスに写し取ろうと思い立ってから、いったいどれだけの歳月が流れたのだろう。正確には一月も経っていないような気もするが、この瞬間のためにアンチャンティーを取り寄せ、レモンを仕入れ、他では使いもしない果物ナイフを友人からかっぱらって来たのだ。

 冷蔵庫からもうひとつレモンを取り出し、グラスの横におく。深い青と、鮮やかな紫、そして明日を照らすような黄色が並ぶだけでも、写真を撮りたくなるようなすばらしい構図が出来上がる。

 思わず写真を撮った。スマホの画面に気持ち良いくらい色彩の映えた画像データが表示される。しかし、これで満足してしまっては画家とは言えない。この美しさを絵として後世に残してこそ真の芸術家と言えよう。

 再び筆を握り直し、絵の具を油で溶かす。揮発性の高いペトロールで酔うのが先か、左手が無意識のうちに取り上げるレモンハイで酔うのが先か、競争のはじまりである。

「これはいったいどうしたというのだ。十七世紀のオランダにでも立ち返ったのか?」

 右手が幻想的な紫の調色に悩みだし迷子になったころ、アトリエの端から鼻にかかった芝居のような声が飛んできた。廊下へとつながる敷居を跨いで踏み込んできたのは、芸大に通っていたころからの腐れ縁を、もっと発酵させてチーズよりも納豆に近づいてしまったような友情を、それこそ粘着質に振りかざして私に取り入ってくる厄介な男だった。

「絵貸し屋よ。過去を振り返るのは学者か愚者のやることだ。私は未来を見ているのさ」

「ずいぶんイエローな未来だな」

 そう言って打謳はネストテーブルからレモンをひょいっと取り上げた。

 絵貸し屋こと。八重樫打謳。肩書きのとおり、こいつは絵を貸すことで生計を立てている胡散臭い男だ。表向きは芸術の復興を望む駆け出しの画商だが、その手法というのがいかにも胡散臭い。画家や芸大生から絵を借り受け、それを芸術に造詣が深い人物へ売り込んで、期間いくらで貸し出すのだ。打謳曰く、「売ってしまえばそれまでだが、サブスクリプションで貸してさえいれば画家に継続的な料金が収入として入るし、借りた側も、飽きたらその絵を返して別の絵を迎える余裕が生まれる。僕はその中間でもってスズメの涙ほどのフィーをいただければそれで良いのだよ」とのことだ。

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