「アンチャンティー」13

 その後の展開は語るまでもあるまい。私の心は凄まじい傾斜で富坂さんへと転がり落ちていき、彼女にふさわしい男になろうと涙ぐましい努力をした。こまめに髭を剃るようになり、毎朝必ずシャワーを浴びるよう努めた。普段使いのメガネも新調し、それまで無頓着だった服装にも気を配るようになった。恋は人を変えるというが、まったくその通りである。

 そして出会ってから一年。三回目の文化祭の裏で、私はとうとう富坂さんに交際を申し込んだのだった。

「はたして、彼女は快諾してくれた。こうして私たちは恋仲となったのだ」

 打謳が盛大にラーメンを啜る。回想の情緒もひったくれもない音だ。

「ちゃんと聞いていたのか、お前は」

「聞いていたとも。きみの足が黒猫に踏んづけられたところくらいでラーメンが来たのだ」

「私は黒猫に足を踏んづけられたりしていない。踏んづけていったのは三毛猫だった」

「また話がズレていきますよ。小滝さん」

 私を挟んで、打謳とは反対側の席に座っている富坂さんが上品な箸使いで春巻きを持ち上げる。あの春巻きは幸せ者だ。あんなかわいらしい唇に挟まれて、美しい並びの歯に噛まれ、妖艶な舌でもって呑み込まれるのだから。いますぐ生まれ変われるなら、選ぶべきはあの春巻きだろう。

「話をもとに戻しましょう。小滝さんの描いてくれた、私の絵のことです」

 やっと届いた八宝菜に箸をつけたところで、富坂さんが切り出した。お互いの恋熱が絶頂を迎えていたころに、かねてより約束していた富坂さんの絵にとりかかったのは、もう五年以上前になるだろうか。

「単刀直入にお願いします。あの絵を買わせてください」

「再三再四断っただろう。あの絵は商品じゃないのだ」

 打謳が蓮華をプラプラさせながら返答する。

「だから誰かが買う心配もないし、貸し出すつもりもない」

「それなら絵の所在を教えてください」

「それも不明だ」

 ほんのすこしだが、場の空気がピリッとした。もともと顰蹙を買いやすい打謳の話し方に腹を立てる人間は多いが、富坂さんも例外ではない様子だ。埒のあかない会話を好むような性格でないことは重々承知している。

「ひとつ、小滝さんにも聞きたいことがあります」

「なんでしょう」

 つい、口調が改まってしまった。

「協力者から伺いました。小滝さんは打謳さんのボディーガードを務めているのですね」
 
 八百屋の前で一悶着おこしたアロハシャツの男が脳裏に浮かんだ。

「ボディーガードなんて。行きがかり上、そうなっただけだ」

「それでも、現にいま、小滝さんは八重樫さんと行動をともにしています。そこで、提案なのですが」

 富坂さんの手が私の右手を取った。すべすべとした肌理の細かい感触にすくなからずドギマギする。

「もし私が、小滝さんのガードをすり抜けて八重樫さんを見事捕まえて見せたら、また前のように、一緒に暮らしても、良いですか?」

 自然と背筋が伸びていくようだった。右手から心臓までを支配していたドギマギは、もはや全身の血管をドキドキと脈打たせ、挙句の果てには膝がガクガクしそうなほどの歓喜となって私の顔に返ってきた。だが、ここで表情を崩してはなんともだらしない。そう思って口元ばかりは緩むまいと、グッと奥歯を噛み締める。

「その勝負、受けて立とう」

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