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時計に手が届く日まで

だれかに褒められたら、高いところにある時計に手が届くような気分になる。

ひとクラスしかない山あいの小学校で、一年生と二年生の時に担任だったのは、やさしい「おばあちゃん先生」だった。子どものときは大人の年齢なんてわかっていないから、おばあちゃんといっても実際は40代くらいだったのかもしれないけど、そのとき祖母が40代だったので、やっぱり「おばあちゃん先生」には違いなかった。

そのやさしい先生は、子どもたちが何かをがんばったり、細やかなことに気配りができたり、お花にやさしくしたりしたら、とてもとても褒めてくれた。おかあさんみたいにぎゅっと抱き上げてくれて、教壇の上に立ってくれるのだ。子どもたちはうれしくてうんと手を伸ばして黒板の上にある時計にさわろうとした。その時に時計にさわるのは、褒められた子どもだけに与えられたステイタスだった。今でいう、オリンピック選手が金メダルを齧っちゃうみたいな感じ。ちがうか。

わたしもそれをやって欲しかった。褒められたくて仕方がなかった。あまりにも褒められたすぎて、自分が時計にさわるところを想像でシミュレーションしてみたりもした。「がんばったね」と言われて、抱っこされる。おばあちゃん先生だから思っていたよりも細くて少し心配になったけど、先生の腕はあたたかくて安心感がある。抱き上げられると、一気に視界が変わるだろう。教室に並んだ机も、クラスのみんなも見下ろせる。窓から校庭の花壇が見え、高いところからだと、ふだんは見えない黒い土の地肌が見えるだろう。黒板の上の時計は、ふいに生暖かく湿った子どもの手で触れられて、驚いたようにひんやりとしていた。

わたしはいつもだれかに褒めて欲しかった。母親はけっしてわたしを褒めなかった。

母親がわたしを褒めなかったのは、そんな時代だったのかもしれないし、褒めたら調子に乗ると思ってあえて厳しくしていたのかもしれない。でも、たぶん、父親が家庭をかえりみないひとだったから、育児が大変で、じっさいわたしがかわいく思えなかった時期もあったのだと思う。3歳下に弟が生まれた。母が長男である弟をことさらにかわいがっていたことは、子ども心にもよくわかった。たしかに、小さい頃の弟はかわいかった。弟は母方の特徴を受け継いで生まれつき色素が薄く、髪はサラサラで茶色がかっていて、瞳も薄茶色。中性的で、ラファエロの描く天使のようだった。

いっぽうのわたしはどっしりと父方の血を受け継ぎ、顔は大きく、手足は太く、髪は硬くて量も多くて真っ黒。瞳だけは薄茶色だったが、そのために光が眩しくて、わたしはいつも眉間にシワを寄せてしかめっ面をしていた。しかも性格は祖父ゆずりの頑固者で、あんたはほんとうに可愛げがない、意地が悪い、と母親に言われ続けた。母親にかけられたその呪いは、大きくなってわたしに恋人ができるまで溶けなかった。

大きくなって、母親も知っている有名な会社に就職した。母の知っている会社に就職したのは、やはり認めて欲しかったからなのかもしれない。初任給でささやかな贈り物をした。その会社で難しい資格を取った。会社から報奨金がもらえたので、母とローマ旅行をした。空港のチェックインカウンターで、ダブルブッキングが出たそうでファーストクラスにしてもらえた。出発前にシャンパーニュとキャビアが出た。

その旅先のローマのホテルで、母と喧嘩になった。きっかけはささいなことだったと思う。そのとき母は「弟は、やさしい」とポツリと言った。偶然とはいえファーストクラスで、ローマに連れてきているのに、そのわたしに面と向かって、弟がやさしいという。弟があなたを連れて行ったのは、盗んだバイクで走りだした時の家庭裁判所ですよ。ああ、この人は何も変わらないと、わたしはただ脱力するしかない。


ところで、「自分ではあまり努力していないのに、なぜか人から褒められること」が、仕事や副業をするときのヒントになるというのをどこかで読んだことがある。そういえば、わたしが誰かから褒められたいちばん古い記憶は何だろうかと思いをめぐらせてみると、やっぱりあのおばあちゃん先生に褒められたことだったと思う。

日記の文章を、褒められたのだ。たしか、小学二年生だった。そのとき、わたしたちは母屋からすこし離れたはなれで寝ていて、食事やお風呂が終わったら、母屋から移動していた。ランドセルは、前日の夜には次の日の時間割をすませ、はなれに行く前に玄関先に置いておくように母親に厳しく言われていた。でもわたしは、ほんとうはランドセルをはなれまで持って行きたかった。冷たい玄関に置きっぱなしにされるランドセルがかわいそうだと思っていたのだ。

だから、ランドセルを主人公にした日記を書いた。玄関でひとりきりなのは暗くてさみしいと、ランドセルを擬人化してランドセルにその境遇を語らせたのだ。もしかすると、あれは日記ではなくて「小説」と呼べるようなものだったかもしれない。それが先生にものすごく褒められた。うれしかった。

ところが、そのとき褒められたのは確かなのだが、先生に抱っこしてもらえたかどうかの記憶がはっきりしない。抱っこされて時計に手が届いたのは実際の記憶なのか、想像なのかがわからなくなってしまった。

時計のひんやりとした冷たさをこの手に感じたような気もするし、すべて想像だったような気もする。でもその日記をきっかけに、ランドセルをはなれに持って行くことを母親に許されたことだけは覚えている。

自分の書いた文章が、誰かに届いたはじめての記憶。


うんと手を伸ばせば、時計に手が届く。

そんな風にわたしのことばが誰かに届いて、何かが変わる。

もうそのときは、誰かに褒められたとか、そんなことは、きっとどうでもいいのだと思う。


わたしはただことばを書く。

今はまだ高く遠いところにある時計に、うんと手を伸ばすように。


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#2022年冬の創作


だれにたのまれたわけでもないのに、日本各地の布をめぐる研究の旅をしています。 いただいたサポートは、旅先のごはんやおやつ代にしてエッセイに書きます!