見出し画像

Vol.0 折茂武彦 真剣とアソビのあいだ

「一旦荷物を下ろすと、
その荷物があまりにも重くて、
もう持ち上げられなかった」

2020年5月3日。
27年にも渡るキャリアを閉じる引退会見で
バスケ界のレジェンドはこう述べた。

積み上げてきた歴史の重みは
もはや本人にしか分かり得ない。
我々ファンに出来る事と言えば
その過程の裏側を限りなく想像し、
これからも応援し続けていく事だろう。

多くを語らない男の頬が緩んだ日

僕自身、
バスケ情報をよく追うようになったのは
ここ2年ぐらいの話。

折茂の壮大な選手人生を語る事は
到底できないが、
一度だけ機会に恵まれたインタビュー取材が
強烈な印象として残っている。

それは2019年7月のこと。
日本代表は21年ぶりに
W杯出場自力出場を決めていた。
過去の大舞台を知る人物として
98・06年の世界選手権に出場した折茂を訪ねた。

それまでの折茂のイメージと言えば、
どこか多くを語りたがらない所に
「プロフェッショナル」を感じる選手。
活躍した試合後のインタビューでも
サービストークを聞ける印象はあまりなかった。

そんな先入観が先行していた事もあり
「どこまで話を引き出せるだろう」と
当日は多少の心配もあったが、
終わってみれば予定を超えるたっぷり1時間。
それまでのイメージがガラリと変わるほど
人間味溢れる内側をたくさん覗くことができた。

今思えば、これ以上ない贅沢な時間だった。

何か笑っちゃいますね。
切れてますね。中々。

初めに用意していた映像を見せる。
自国開催で行われた06年大会の自身のプレーだ。
懐かしそうに口元が緩んだ。

当時、すでに36歳。
13年も前の自分のプレーを
現役で振り返る事の出来る選手はそう多くない。
「切れてる」という表現は
決して冗談めいたものではなく
49歳にしてなお一線に立ち続ける
折茂だからこその本音だったのだろう。

その他にも
「代表活動中は携帯が回収された」とか
「食事中は会話禁止だった」など、
当時の裏エピソードを次々に話してくれた。

時折白い歯を見せながら、
まるで昨日のことのように記憶を辿る。
「今の日本代表の活躍があって
過去に再びスポットライトが当たる事が嬉しい」
という言葉が、
紛れもなく折茂の本心だったのだろう。

ずっと競技発展を願ってきた折茂にとって
自国開催の世界選手権は
一段と特別な感情が芽生えたに違いない。
どのような想いで
日の丸のユニフォームに袖を通したのか
当時の心境を聞いた時だった。

年齢も年齢だったので、
そろそろ自分の方向性を考える時期に
きているのかなと思っていた。

予想だにしない答えが返ってきた。

「引退を考えていた」という事実が
あらゆるメディアで既出だった事を
後から知ったのだが、
その瞬間は突っ込んでいいのか迷い、
一歩も切り込めなかった。

結局、ずっと冒頭の言葉が気になり、
取材の最後に改めて真意を確認してみる。

そうですそうです、引退しようかなって。
もうなんて言うんですか、
トヨタでも優勝もしたし
何となくやることがないっていうか、
もういいんじゃないかなって思いになっていて。

まさか1年後に引退会見を開く事になるとは
想像すらせずに
その時はまだ「過去のお話」として聞いていた。

選手生命を伸ばした世界舞台

36歳で「引退」を考えていた折茂。
当時、代表に復帰した背景をこう教えてくれた。

その当時、
ジェリコヘッドコーチに会場で話かけられて、
「日本代表に戻ってこないのか」
というお話を頂いて、
はじめは冗談かと思ってたんですよね。

そしたら本当に毎日連絡を頂いて、
僕の一個下でキャプテンだった
古田選手からも電話が毎日きて、
ジェリコが練習始まる前に、
「明日、折茂が合流するから」って
毎日言うらしいんですよね。

それでも本当に何度も何度も話して
誘ってもらってるうちに、
これだけ自分を必要としてくれるのであれば、
もう一度自分がどの程度世界で戦えるのか、
こんな自国開催なんて多分
自分がバスケットやってる間には
もうないと思っていたので、
本当に必要としてくれたことが非常に嬉しくて、
じゃあ力になれるかどうかは分からないけど
行きますと。

復帰した日本代表ではチーム最年長。
しかし、結局大会を通じて
全試合スタメン&二桁得点を挙げてしまう。

それは折茂にとって
「もう一度バスケでやっていける」という
確信へと変わるターニングポイントとなった。

そしてその熱が、
「北海道への挑戦」へと動かす。

自分ができるっていうことを証明して、
ならばもっと必要としてる所に行ってやるべき。
それで決断したんですよね。
だから恐らく2006年に出てなかったら
多分もう北海道に来ることもなかったですし、
もしかしたら辞めてたかもしれないっていう
ギリギリのラインだったかなと思いますけどね。

"人生の転機"とは
いつ訪れるか分からないものである。

あの時
4年ぶりに代表復帰していなかったら、
折茂は北海道に来ることもなく、
多くのBリーグファンが
そのプレーを見る事もなかったのかもしれない。

"人生の転機"とは
気まぐれで、侮れないヤツである。

"自分達の時代じゃなかった"

折茂を語る上で欠かせない男がいる。
「ミスターバスケット・佐古賢一」の存在だ。
二人は1970年生まれの同級生。

高校時代から共に日の丸を背負い、
文字通り切磋琢磨しながら
日本バスケ界のトップをひた走ってきた。

しかし、運命のイタズラなのか。
二人が同じユニフォームに袖を通すチャンスは
ことごとく、すれ違いに終わってしまう。
唯一、日本代表を除いては....

僕は彼とずっと
一緒にバスケットがやりたくて
大学もそうですし、
同じ企業にいきたいっていう思いもありました。
これが本当に運命なのかと思うぐらい
中々一緒のチームになれなくて。
だから彼とバスケットができたのも
日本代表だけなんですよね。
なので、
僕にとって日本代表は特別なものでもあったし、
彼とやるバスケットっていうのは
本当に楽しくて。

そんな佐古を、折茂は"戦友"と呼ぶ。

過去に折茂は4度、佐古は5度、
オリンピック予選を戦っては
夢舞台への道をことごとく阻まれた。
同じ夢を追い続け、苦楽を共にしてきたのだ。

俺らの時代じゃなかった...

しみじみ折茂はそう残念がるが、
佐古は代表チームのアシスタントコーチとして
21年の東京五輪の臨む権利を手にした。
折茂は一言だけ「うらやましい」と妬んだ。

佐古はその想いを汲み取ったように答える。

それはね、簡単に喜べない。

一番のライバルであり良き理解者

ライバルでありながら互いに切磋琢磨し合い
日本バスケ界発展のために奔走する姿勢は
今も昔も変わらない。

そんな二人の揺るぎない絆を
マジマジと見て取れる場面があった。
先日放送されたGet Sportsでの一コマ。

昨シーズン初めに「引退」を表明した折茂。
キャリアを畳む決断の背景には、
選手生命を脅かすほどの肺の病があった。
番組内では「現役続行」
「シーズン半ばでの引退」に揺れ動く
等身大の折茂がリアルに描かれていく。

1月、佐古が北海道まで駆けつけた時の事。
一枚の鉄板で二人がジンギスカンを焼きながら
互いの想いを告白し合う場面には
深い感動がこみ上げた。

「試合に出ていなくても折茂は折茂だよ」

戦友でありながら"いち折茂ファン"として
その偉大な存在に敬意を払う佐古の言葉は
バスケ界にとっての"その価値"が
どれほどであるかを物語るには十分だった。

陽の目を浴びない時代から
二人が紡いできたバスケ界への功績に対する
少しばかりの誇示だったのかもしれない。

折茂的"冷静と情熱の間"

今年、北海道で行われたAll-starゲーム。
全ての視線が折茂の勇姿に注がれていた。

まるで初めてバスケットに触れた子供の様に、
若い才能とのセッションにはしゃぐ折茂。
この"たまらない瞬間"こそが
長らくコートから離れさせなかった
理由だったのだろうと思った。

試合後、
あらゆるメディアが折茂の声を欲しがる中、
とある企画で単独取材のチャンスをもらった。

聞き手は島根スサノオマジック・佐藤公威(当時)。

そのとき、
佐藤がぶつけた質問に対する一つの答えが
とても考えさせられる深い内容だったので
ぜひ紹介したい。

佐藤からの質問
Q. 折茂さんにとって
 バスケットでの"アソビ心"とは?

▼11:40~折茂にとって"アソビ心"とは?

折茂の回答
A. ほぼアソビかな。
 "アソビ"がなかったらここまで
 やれなかったと思う。

"冷静と情熱のあいだ"
ならぬ
"真剣とアソビのあいだ"

バスケット選手に限らず、
今を生きる全ての人々に通じる
テーマのような気がして
今でもとても深く印象に残っている。

「日本のバスケットを
 野球やサッカーのようにもっとメジャーに」

折茂はまだ夢の道半ばだ。

これからも形は違えど、
その夢を叶える姿を応援し続けていきたい。

日本バスケ界のレジェンドは
いつまでも、レジェンドなのだから。

-----------------------------------

Twitterではバスケ愛をつぶやいてます!

noteサークルではゆる~く
バスケ愛を語り合ってます!(メンバー募集中)


この記事が参加している募集

すごい選手がいるんです

Bリーグ

頂いたご支援は100%、有り難くBTalksの取材活動費に充てさせて頂きます⛹️‍♂️皆様のおかげでメディア運営が成り立っていることに日々感謝しつつ、今日もどこかで選手を追いかけています🎥