軍隊経験と建築家|菊竹清訓と清家清、それぞれの戦後民主社会な「格納庫」
新建築主催「12坪木造国民住宅」コンペで佳作に選ばれた菊竹清訓案(新建築1948.4)と、清家清の建築家デビュー作となる「うさぎ幼稚園」(竣工1949、新建築1950.4)(図1)。特徴的なシェル形の建築は、ともにそれぞれの戦時中の軍隊経験に由来しています。
図1 ふたつのシェル型屋根建築
敗戦を境にして、民主的変革を遂げたといわれる日本社会。でも、そんな社会の建設を担った若き建築家たちは、やはりそれぞれに戦争を体験し、自らもその技術・技能でもって「一億総火の玉」の一端を担わざるを得なかったのですから、戦後復興期のあれやこれやには、至るところに戦争の面影を見ることができます。それは目に見える傷跡だったり、そうとはわからない歪みだったり、時にはどさくさに紛れた恩恵だったり。
早稲田大学在学時、学徒動員で兵舎建設にかかわった菊竹清訓、海軍技術大尉となった清家清。ふたりもまた、戦後、華々しく建築家デビューする前に軍隊経験があり、それぞれの建築創作になんらかのかたちで影響を及ぼしているのでした。
というわけで、二人のシェル型屋根の建築を手掛かりにして、「軍隊経験と建築家」についてあれこれ考えてみたいと思います。
建築学生・菊竹清訓の「12坪木造国民住宅」
敗戦後の1940年代後半、建築雑誌『新建築』は複数回にわたって、戦後日本にふさわしい住宅や建築を模索すべく建築設計コンペを開催。住宅だけでも、以下の5回が開催されました。
回数 テーマ
第1回 12坪木造国民住宅
第2回 新住宅
第3回 15坪木造国民住宅
第4回 50㎡の木造一戸建て住宅
第5回 不燃構造による集合住宅
これらコンペの第1回が冒頭に紹介した「12坪木造国民住宅」でした。コンペの優秀作品と審査評は雑誌『新建築』1948年4月号に掲載。その優秀作品のひとつが菊竹清訓のそれです(図2)。
図2 12坪木造国民住宅・菊竹清訓案
住宅は休息の為めのものではない。それは新しき活動を約束すべきものである。悪夢の如き戦いは以前のあるまじき住宅を一掃して呉れた。そして建築は新しき烈しい苦難を要求している。此処に12坪住宅の一案を提示する。
(菊竹清訓の提案主旨、1948)
戦争は悪夢だったけれども、それによって旧弊にまみれた住宅が一掃されたという説明がとても興味深い。これからの住まいは畳の生活や角張った屋根を追い払い、この案にみられるような明るく民主的な住まいになるゾ、というわけ。
ちなみに、菊竹案を含む12点の掲載作品は全て佳作。審査員のひとり、池辺陽は「われわれは選出の方針を変更して入選作をださず12の佳作作品を選ぶことにした」と言うのです。なぜか。それは応募作品が総じて審査員の期待に沿うものではなかったから。審査評がちょっとビビる内容。とりあえず、審査員のひとり、池辺陽の文章を見てみましょう。
素直に云って応募案全体の水準はあまりにも低く、審査は案の中にどこか正しい考え方のはっきり現れていることを探し求めるということに終始する結果となった。案の大半は時代迎合的な建築スタイルブックに影響されたものが多く本質的追究をしていると見られるものは極く少数であった。それらの案にしても(中略)全体としてバランスある計画が示されていたものは皆無であったと云っても過言ではないと信ずる。
(池辺陽「審査の立場から」1948)
プリプリしてるのは池辺に限らず、清家清、吉阪隆正、伊藤喜三郎らも同様。それぞれに異なる角度からの「苦言」を呈しているのです。そんな苦言のなかでも、特段に菊竹清訓の案についてコメントしているのが清家清です。限られた紙幅の多くを「応募案総じてガッカリだぜ」的なお話しが続き、最後に菊竹案についてかなり具体的に苦言を呈しています。
菊竹清訓氏のはシャーレンらしい構造ですが、水平反力をどう処置するのか、お考え下さい。これと同じ構造ではありませんが、四五年前に板と釘で綴った殻構造で小さな工場を舞鶴に建てたことがあります。私の計算ではバットレスで水平反力を逃げたつもりでしたが施行(ママ)の不完全からすっかり失敗したことがあります。菊竹氏のものは意匠的にも佳案でした。苦言をおわびします。
(清家清「審査後感」1948)
ちなみに、清家がここでいってる舞鶴の工場とは、戦時中の海軍工廠のこと。敗戦直前の2月、雪で倒壊してしまいました。清家は戦時中にいくつかつくった海軍施設で、菊竹案とよく似たシェル(シャーレン)型屋根の建物を設計していたのでした。菊竹の案に不安を持ちつつも、シェル型屋根に特徴を持たせた設計提案にコメントを寄せているのでした。
では、清家清のシェル型屋根とはどんなものだったのでしょうか。
海軍大尉・清家清の「神町航空隊格納庫」
1943年、後に戦後日本を代表する「違いのわかる」建築家となった清家清は、海軍技術見習尉官として兵役に就きます。後に、中尉、大尉となりました。なぜ海軍を選んだのか。それを清家は「陸軍はなにかとしんどい」「海軍なら歩かなくていいだろう」という理由だと言うのですが、韜晦癖なお方なのでどうだか。
まず9月から中国青島の特別根拠地隊にて訓練。翌年春から舞鶴鎮守府、さらにその後、神町航空隊へと配置されます。清家はそこで、飛行機の格納庫の設計業務を任されます。
ともあれ訓練を終えて、神町航空隊/現在の山形空港の格納庫の設計が、私の処女作となる。地形を利用したカムフラージュもあって、各棟少しは異なっているが同じ設計で二九棟も建てた。のち、建築士法施行に際し、建築士の資格は建築面積で決まったから、この格納庫のおかげで私は無試験で一級建築士にして頂けた。
(清家清「ケ・セ・ラ・セ・ラ」1988)
清家の建築家としての経歴は、戦後の「うさぎ幼稚園」(1949)から書き起こされますが、雇われ(?)としては、神町航空隊の格納庫が処女作なのだそう。1944年からは海軍兵学校の教官となって終戦を迎えました。その舞鶴での出来事が、先ほど引用した「失敗」。
1944年2月朝、大雪の日。「海軍工廠の建物が危ないから見にきてくれ」と電話で呼び出された清家は、現場に急行し、まさに建物が雪の重みで倒壊する瞬間を目撃したのでした。韜晦癖のある清家が倒壊の瞬間を(以下、自主規制)。
雪おろしが間に合ったのは残ったんですけどね。間に合わないのが倒れちゃったんですよ。それはほんとにおもしろかったですよ。おもしろいなんていったら悪いけど、建物がスローモーションでねじれるように倒れて、雪煙りがボワーッと上がって、もう壮観でしたね。
(清家清「清家清-わが軌跡を語る」1982)
ただ、この舞鶴の海軍工廠は「私の設計じゃないです」とも語っていて、審査評で語った「失敗」の物件とは別なのかもしれません。清家自身が関与した神町航空隊や舞鶴で複数の格納庫は戦後にもまだ残っていたようです。
この間までその格納庫は残っていたんですよ。農協の倉庫になったりして。そのときは、3年もてばいいというのでやっていたわけです。Z工法っていうんです。(中略)まったくのリミットデザインです。杉の許容応力を120キロぐらいで計算するんですよ。
(清家清「清家清-わが軌跡を語る」1982)
清家は海軍技術大尉時代に限られた資材で空間を確保する掩体(シェルター)の設計についての上申書「任意荷重ニ対スルW工法ノ応力及断面形態ノ簡易ナル図式解法」を作成しています。さっきの「Z工法」はコンクリートを用いた急速基地設営工法で、「W工法」は木造によるものと思われるのですが、ミリタリー方面に疎いので確かではありません。
この、戦時中に関わった格納庫や「W工法」の技術は、後に「うさぎ幼稚園」(図3)での設計に際して応用されます。
図3 うさぎ幼稚園(新建築1950.4)
海軍で使っていたW工法というのがあったが、その施工法に準じ、仮設の母屋を定規にして殻を形成してある。殻を張り終ってから母屋はとりはずされる。
(清家清「設計者のことば」、新建築、1950.4)
このあたりのお話しは以前、noteに書きました。よろしければ併せてお読み下さい。
軍隊経験で得た建築技術は、戦後に幼稚園の復興へと応用されたのです。あのアメリカ映画『我等の生涯の最良の年』(1946)に出てくる陸軍航空軍大尉フレッドが、スクラップになった戦闘機の墓場を彷徨った先(トップ画)に、プレハブ住宅施工の転職先を得るように。戦闘機は住宅に変わり、同じ人間がその両方にかかわるのでした。
動員学徒・菊竹清訓の「地下飛行機工場」
清家清は、軍隊経験で習得した格納庫の設計や「W工法」といった技法をベースに、戦後のデビュー作「うさぎ幼稚園」を創り出しました。それと同じように、シェル型屋根が特徴的な菊竹清訓「12坪木造国民住宅」案もまた、菊竹が学徒動員での経験をもとに着想した住宅なのでした。
建築家・建築史家である藤森照信によるインタビューに答えて、菊竹清訓はこのコンペ応募作について次のように回想しています。
この案には曲面の屋根を載せていますが、それは、学徒動員で山梨の韮崎にいたときに設計したドーム屋根を元にデザインしたからなんです。立川飛行機の分散防護工事というのをやったんです。南下がりの斜面地の川を挟んだ向かいの崖に横穴式のトンネルをつくり、そこに地下飛行機工場をつくりました。そこで戦闘機の組立てをやり、その工場で働く工員たちの三角兵舎というものをつくりました。
(菊竹・藤森「戦後モダニズムの軌跡・丹下健三とその時代・15」)
このインタビューはnoteでも公開されていますので、原文をお読みになりたい方はぜひぜひ。
さて、特徴的なシェル型屋根は、この学徒動員時に設計した屋根がもとになっている。清家清とソックリな経緯を知ると、あのコンペの審査評で妙に清家が菊竹案に絡んだ理由が分かります。「わかるぜ。これって、あれだろ。なぁ、若いの」と言いたげに。菊竹はさらにこう回想します。
各大学から学生たちが動員されて、下士官待遇で監督をし、職人たちを使って兵舎をつくったんです。2,000戸くらいつくったと思います。(中略)そのころは材料がないんですよ。板しかない。もちろん大きな寸法の角材はない。そこで、板だけでつくれる構造としてジベルと釘だけでできる2”×4”のようなものを考えました。そうして大きなトラスにして掩体壕を覆い、そこに飛行機を入れておくんですが、そのひとつが潰れたんです。その理由は、掩体のために土をかぶせておくのですが、雨が降って土が湿って重くなって潰れちゃった。そこで、もっとよい方法を模索した結果、両側を板で固めてアーチをつくろうということになった。
(菊竹・藤森「戦後モダニズムの軌跡・丹下健三とその時代・15」)
そんなこんなで敗戦となり、東京へ戻ってきた菊竹が応募したのが、この「12坪木造国民住宅」なのでした。戦時の記憶が生々しいままに、戦後日本社会の希望を託す住宅案の屋根に、下士官待遇の監督として経験した技術を応用したのでした。ちなみに、この方法で実際に喫茶店「コア」を完成させます。
コンペ後、清家はデビュー作「うさぎ幼稚園」を竣工させ、菊竹はこのコンペ案をもとにした喫茶店「コア」を手がけることになりました。そして、1953年には独立し、「菊竹清訓建築研究所」を立ち上げ、1956年にはブリヂストンの工場をリノベーションした「永福寺幼稚園」を、さらに翌1957年には、これまた古い木造建築の廃材を活用した「ブリヂストンタイヤ母子寮」を手がけます。
独立後から伝説の自邸「スカイハウス」(1958)に至るまでの菊竹作品は、その多くを菊竹の実家とつながりがあったブリヂストンタイヤ関連の、しかも古い木造建築のリノベーション物件ばかり。そうした仕事をこなしていく下地になったのが軍隊経験でした。
終戦間際1945年、日本最大の航空機メーカーであった立川飛行機は軍の命令で巨大な地下工場を、韮崎というところに建設中であったが、ここに学徒動員で派遣され、多数の工員宿舎や、戦闘機格納庫などの設計、監督をやらされた。これらはすべて木造の建築であったが、いかに資材を節約して所期の目的を達成するかということに努力を集中させたもので、これほどの実地教育はなく、貴重な経験となった。
(菊竹清訓「1950-1960とりかえ論」1981)
下士官待遇での監督経験が、戦後の幼稚園や母子寮(戦争で夫を亡くした母子のため)に活かされる技術のリノベーション。そんな、学徒動員からブリヂストンタイヤでのリノベ仕事といった木造建築との対決の延長線上に、あのメタボリズムの思想が着想されていくわけですが、それはまた別の話。
クルーエルな戦時利得
さて、戦争は人々の人生ばかりか命までも奪う出来事でした。清家清にとっても、戦時中の体験、そして軍隊経験は決して良いものではなかったのです。清家は言います。
特に私にとっての軍隊の経験はプラスになったと思うことは、軍隊ではかなりひどいことがあったわけですよ。-たいがいは忘れてしまいましたが、ときどきそのひどかったことを思い出すわけです。どういうときに思い出すかというと、何かひどいことが起きたときです。そうするとね、大抵のことが起こっても驚かないですね。あのときはもっとひどかったと思うことでね。あのときに乗り切れたんだから、これも乗り切れると思うんです。わが人生でそれがいちばんの収穫だったと思いますね。
(清家清「清家清-わが軌跡を語る」)
あくまで前向きに語っているけれども、その心中は本当に戦争を経験した者にしかわからない風景が広がっているように感じられます。それと同時に、清家は軍隊でもたらされる技術発展という性格にも冷静に目を向けています。海軍のW工法を応用した「うさぎ幼稚園」に言及しながらこう言うのです。
海軍の建築には建築基準法がなかったことが良かったと思います。基準というものはかならずデザインから遅れるものです。その点だけを取り上げても、海軍の技術は進んでいました。そして海軍では市街地建築物法(当時の建築基準法)とは無関係に新しい技術を開発していましたから、「うさぎ幼稚園」は戦後建築基準法ができていないときに建てられたので、今でしたら建てられません。小さな木造建築については何も規則がありませんでした。
(清家清「清家清に問う」1982)
建築家・建築技術者にとっての「軍隊経験」がここには語られています。そして、さらにこう続けます。
よく軍隊に行ってその間は無駄にしたという人がいますが、私はそこでいろいろなことを勉強させていただいて、むしろ一種の戦時利得者だと思っています。兵隊に行っていちばん良かったと思うのは、わが人生でたいへんクルーエルなことに何度か遭遇したことがありますが、戦時中もっとクルーエルな事態があっての時自分はそれを乗り切ってきたんだという自信が持てたことです。建築技術というより、生きるための術、逆にいって死ぬとはどういうことなのかというようなことを学びました。
(清家清「清家清に問う」1982)
多くの人が証言する、いつもニコニコと「どこまでが冗談でどこまでが本音であるのか分からない」という清家清の人柄・物腰は、その背景に数々の「クルーエルな事態」が広がっているのでは中廊下。そして、そんな事態を味わい尽くした「戦時利得者」だからこその建築創造があったのでは・・・なんて思うと、明るい戦後民主社会が、また違った景色に見えてくるのではと思います。
(おわり)
参考文献
1)新建築社編『新建築(23巻4号)』、新建築社、1948.4
2)新建築社編『新建築(25巻4号)』、新建築社、1950.4
3)鹿島出版会編『現代の建築家・菊竹清訓』鹿島出版会、1981
4)新建築社編『日本現代建築家シリーズ⑤清家清』新建築社、1982
5)新建築社編『新建築臨時増刊・菊竹清訓』新建築社、2012
6)彰国社編『建築―私との出会い〈2〉』彰国社、1988
7)新建築社編『新建築(74巻9号)』、新建築社、1999.9
あと、こちらも本文の着想に際して参考となりました。タイトルはこの本のもじりです。
サポートは資料収集費用として、今後より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。スキ、コメント、フォローがいただけることも日々の励みになっております。ありがとうございます。