2001年の日本

未来学ブームなのにご機嫌ナナメな真鍋博|イラストレーター真鍋博の未来都市【5】

日本万国博覧会を翌年に控えた1969年、『2001年の日本』と題した本が出版されました(図1)。2001年の生活を予測する70のテーマについて、多彩な論者が未来像を競って論じています。2年前の1967年には日本未来学会が発足。当時の日本は未来学ブーム真っ盛りでした。

図1 『2001年の日本』

この本の編集にかかわったのは、社会学者・加藤秀俊と、イラストレーター・真鍋博。執筆陣には、建築関連では、丹下健三、水谷頴介、川添登、石原舜介、太田実、伊藤善市などの名前を見ることができます。

当然、出版されてから32年経った2001年には、この『2001年の日本』で予測された未来がどの程度、実現したのかを論ずる記事が出たりしました。ただ、真鍋博にとっての「未来」を考えると、『2001年の日本』の予測について、その的中率を云々するのは何とも無粋なことに思えてきます。

未来学ブームのなかで未来画の巨匠・真鍋博はどんな活躍をして、そして、どんな思いで未来を見据えていたのでしょうか。

未来学、未来ブーム

アメリカの「二〇〇〇年委員会」をはじめとした世界的な未来研究ブームの影響で、日本でも未来学研究会なるグループが発足。1967年には日本未来学会へ発展しました。初代会長は中山伊知郎(1898-1980)。学会の中心的メンバーには、林雄二郎、加藤秀俊、小松左京などが名を連ねました。未来学研究会の発足にはエッソ石油の広報誌『energy』での特集「未来学の提唱」があり(図2)、これは後に、『未来学の提唱』(1967)として単行本化されています。

図2 「未来学の提唱」目次

メンバーとまではいかないものの、建築家の磯崎新や黒川紀章らも伴走していたそう。当然にメタボリズム・ムーブメントとも関係者が重なっていたりします。近未来的な都市・建築ビジョンを描いたメタボリズムのメンバーたちもまた、未来学ブームの時代を共に生きていたのでした。

子どもたちにとっても、未来は輝いていました。たとえば、小松崎茂(1915-2001)や、その門下生である伊藤展安(1936-)による未来イメージの挿絵は、真鍋博の未来画にも増してよく知られてます(図3)。

図3 伊藤展安「2061年の東京」

また、SF作家の小松左京は子ども向け読み物として『空中都市008』を執筆、後にNHK人形劇としても放送されます(図4)。そのほか、『鉄腕アトム』や『科学忍者隊ガッチャマン』などのテレビ放送が開始されたのも1960~70年代にかけて。

図4 小松左京「空中都市008」

そんな動向は、当時刊行された子ども向け図鑑にもみてとれます。たとえば、国際情報社による『図鑑わたしたちの科学百科』(全20巻)では、最終巻を「未来物語」と題して、建築家・菊竹清訓の「海上都市」を紹介。また、小学館の『学習科学図鑑シリーズ』(全12巻)でも、同じく最終巻を「未来の世界」と題し、これからのエネルギーや国土開発、生活、交通などの未来像を紹介しています(図5)。

図5 学習科学図鑑シリーズ:未来の世界

なお、巻末には丹下健三研究室、黒川紀章建築都市設計事務所、菊竹清訓建築設計事務所等の協力を得たことが記され、それぞれの都市・建築提案が掲載されていて、そういう時代だったんだなぁ、と感慨ひとしお。

日本万国博覧会と真鍋

さて、そんな時代にあって、イラストレーター・真鍋博はたくさんの未来イメージを表現した「未来画」を描いています。当時を生きた子どもたちが抱く未来像は、真鍋博によってつくられたといっても過言ではありません。

そんな「未来」の専門家ゆえ、日本万国博覧会(1970)に際し、「万国博を考える会」に参加しています。小松左京の自伝『SF魂』に次のような回想がでてきます。

九月十五日、岡本太郎、萩原延寿、星新一、真鍋博氏らを含む総勢三十五名による「万国博を考える会」の第一回総会が、大阪科学技術センターで開かれた。僕が司会役でパネルディスカッションも行い、各メンバーがそれぞれの専門的立場から万国博を「考え」続けようと合意して、最初で最後の総会が終わった。
(小松左京『SF魂』2006)

万国博覧会では三菱未来館の起案にも携わり、その後も沖縄海洋博(1975)テーマ委員や科学万博(1985)プランニングスタッフ等を歴任。博覧会を通した未来像の提示を行っています。

冒頭に紹介した『2001年の日本』も真鍋の呼びかけで生まれたもので、小松左京や川添登らとの交流など、専門分野・領域を横断しながら、創作活動がなされているのです。

未来学関連本と真鍋

未来と深い縁にあり、そして日本未来学会のメンバーとも深い交流がありつつも、真鍋自身が未来学の主要メンバーに挙げられることはほぼありません。とはいえ、梅棹忠夫、加藤秀俊、小松左京らによる関連書籍の表紙イラストや挿絵は主として真鍋が担当しており、未来学の視覚イメージ形成に、真鍋のイラストレーションはなくてはならないものでした。

たとえば、未来学シンポジウム(1967,68)には浅田孝、菊竹清訓、日笠端(1920-1997)、川添登のほか、真鍋も参加し、報文集の表紙は真鍋のイラストレーションが採用されています。あるいは、科学技術庁監修の『21世紀への階段 40年後の日本の科学技術』(1960)でも、装幀と挿絵を担当してます(ただ、後の明るい作風とは異なる)。

そして、未来学研究会発足のマニフェストとなった雑誌『energy』の「未来学の提唱」特集(1966)。川添登のほか梅棹、小松、加藤、林らが監修のもと、真鍋は見開きの絵を提供、単行本化された際にはカバー絵を担当しました。

さらには、林雄二郎を中心とした研究グループ・ビジョン研究会によりまとめられた報告書『20年後の日本』の内容を母体としたベースとしつつ、「自由な発想のもとに、一般の読者が茶の間でくつろぎながら楽しめるよう意図して編集」した『絵で見る20年後の日本』(1966)は、真鍋自身の単著として出版されています(図6)。

図6 『絵で見る20年後の日本』

巻頭文「未来を考える手がかりに」で真鍋は次のように書いています。

未来像は、想像力によってつくられる。想像は空想ではない。「科学」によって裏打ちされた思考である。この本は、その意味では想像力だけの産物ではなく、画家として未来を描いては第一人者といわれる真鍋博氏自身の大胆な「空想」を盛り込んだ未来図である。しかも、単なる未来的絵物語りではなく、20年後という時点を想定し、林ビジョンが描いた未来像を基調としている。
(真鍋博『絵で見る20年後の日本』1966)

本書の冒頭には林雄二郎による論考「未来学ノート」が附されています。この『絵で見る20年後の日本』をさらに発展させたのが『2001年の日本』なのでした。

その他にも、日本生産性本部発行「未来シリーズ」の第一弾、川添登編『都市と人間』(1967)では、林雄二郎をはじめ、加藤秀俊、小松左京、池辺陽、栄久庵憲司、浅田孝、磯崎新、川添登といった執筆陣のほか、真鍋は表紙カバーイラストのほか、扉絵を担当。

首都圏整備委員会委員・大沢雄一監修『首都圏・昭和60年』(1969) では、将来計画を一般の人々に分かりやすくするため、真鍋のイラストレーションが採用されています。

未来学ブームへの大いなる疑問

さて、未来をこよなく愛する未来画の巨匠・真鍋博にとって、日本万国博覧会前夜に花咲いた未来学ブームは当然に歓迎されるべきものだったと思いますよね?

実際に彼には未来関連でたくさんのお仕事が舞い込んできたわけですし。でも、彼の言葉をあれこれ読んでいくと、どうやらそうではなかった。むしろ、反感すら持っていたことが見えてきます。

たとえば、真鍋が加藤秀俊と連名で記した『2001年の日本』のまえがきには次のようにあります。

この本におさめられた多様な予測が、ほんとうに、そのとおりになるのかどうかはわからない。しかし、現代の人間の想像力のすべてがここには動員されている。そしてこの本のどの部分をとりあげてみても、それは、読者それぞれの想像力を刺激するであろう。そして、そのようにして、刺激された読者の想像力や期待が、実は、2001年の日本をつくってゆく力になるのだ。
(『2001年の日本』まえがき)

未来予測の的中率自体には意味がないこと。ひとりひとりが未来への想像力を育むことに意味があることがここでは語られています。『絵で見る20年後の日本』ではもっと突っ込んだ表現がみてとれます。

未来屋という言葉があるそうである。大風呂敷をひろげ、予算獲得の華華しいその場限りのアイデアをふりまくプラン屋のことをいうらしい。未来屋の横行する未来ばやりの時期はよくない時代だともいわれる。せめて未来での現実逃避を行政がとり入れ、国民もそれを夢に生きていかねばならない時代だからである。そう思われるふしがないでもない。
(『絵で見る20年後の日本』あとがき)

未来学ブームについて、真鍋はそれを「未来屋」と皮肉っています。だから真鍋は自ら未来を描く際に、押しつけがましい未来を描くことを忌避していました。

これは早く来い来いとのほほんと待っている夢の未来ではない。待ちのぞむべき未来のために解決していかねばならぬ未来である。そしてあくまで自分の考える日本の未来である。自分で摑みとりたい、実現させたい未来である。
(『絵で見る20年後の日本』あとがき)

そして、さらに言います。

未来は可能性をふくんでいる。未来は一つではない。いろいろビジョンがあっていい。未来は方法やアイデアやパターンではなく考え方であり思想である。
(『絵で見る20年後の日本』あとがき)

そうした皆の「考え方であり思想」、「刺激された読者の想像力や期待」が「2001年の日本」をつくってゆく力になるのだと。そんな真鍋自身、ぜひとも自分の目で「2001年の日本」を見てみたいと強く願っていたといいます。でも何とも皮肉なことに、真鍋は21世紀=2001年を目前にした2000年10月、享年68歳で永眠します。

自らが描いてきた21世紀を見ることなく、この世を去ったのはなんとも口惜しかったに違いありませんし、それ以上に、真鍋が描いたたくさんの未来像が「あの頃の未来」を象徴するノスタルジーの対象となっていると知ったら、これまたご機嫌ナナメになるのでは中廊下、とも思うのです。

(おわり)

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