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「音を視る魔法使い達」─#バーテンダーとの思い出

 現在主催しているコンテストです。ぜひ多くの方に読んでもらい、書いてもらい、一緒に盛り上がってもらえたらなと思います!

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 営業の片付けを一通り終え、一息。その日は珍しく明日分の仕込みもなくダラダラしていた。

 初夏を迎えるという頃で、軽い暑さも帰路へ着く気持ちを遠退かせる。まかないのパスタを食べ終わり、休憩室に居座って漫画を1つ読んでいた。フレンチの料理書やウイスキーの教科書、カクテルブックの間に、スタッフが少しでも飲食に興味を持てば良いなと店長が置いていた”Bartender”という作品である。

 当時、キッチンの主力部隊から外され、突如として異動した先のウェイティング・バーにて分からないことだらけだった僕は、そんな漫画本にもすがりたい思いでありとあらゆるお酒の本を読み漁っていた。

 なにせ目標となるシェフのいたキッチンと違い、お酒を教えてくれる人はいない。所属するバーテンダーが立て続けに辞めてしまった結果で僕はここに配置されたのだ。この頃は知識もない上にまだ会話術なども身に着いているはずもなく、文字通りの裸一貫でカウンターの中へ立っていた。

 もう1巻読もうと棚を物色していると、まかないを食べ終えたパートのお姉さんから声がかかる。

「この後って暇? 今日旦那の帰りが遅いから、一緒に飲みに出ない?」

 艶っぽい言葉にドキッ。何にもないんですけれどね。お上りさんの僕には刺激が強い。

「えぇ、ぜひ行きましょう」

「子供がいると、なかなかこういう時じゃない限り夜は歩けないからさ。このあたりのBARに行ってみたかったのよね」

 緊張気味に返事をした僕へサラっと現実を突きつける。いやいや、何にもないんですって。現実は小説よりも現実なり。とはいえ僕自身もこの川崎という街に土地勘があるわけではなかったので、とりあえず2人揃って携帯電話を取り出し、評判の良さそうなお店を何軒か回ろうという話に収まる。

 自分達の職場より2つほど道違いの、存在には気づいていたけれど通った事のなかった細く薄暗い道に、青く、小窓へステンドグラスの張られた扉が印象的なBARがあった。

 カラン。喫茶店のような小気味良い鐘の音が鳴る。

「いらっしゃいませ」

 あごひげを綺麗に整えたマスターが出迎えてくれる。何を頼もうかと悩み、僕は漫画に出てきていた”スロージン・フィズ”をお願いする。姉さんは「フルーツで何かください」と、少し慣れているご様子。この時に気づいたのだが、今夜が人生で初のBAR来訪だ。無駄にキョロキョロしてしまい、落ち着かずに口数も多くなった。

 1杯目を飲み終わり、次は僕もおまかせしてみようと「甘めでショートカクテルを」と頼む。かしこまりましたとシェイクで仕上げてくれたそれは、見た事のない泡立ちだった。

「ありがとうございます……。これは?」

「グラスホッパーという、チョコミントのカクテルですよ。普通はおまかせで出す事はほぼないのですが、好きそうだったので」

「えっ!……えぇ、とても。でもどうして判ったんですか」

「先程お二人で話していらっしゃったかなと思ったのですが。夏はコンビニにチョコミントのお菓子が増えて嬉しいって」

 確かにそんな話が出ていた。しかしマスターがそれに混ざっていたわけではないし、その時は他の席へ接客していたはずだ。どうして? と頭を悩ませていると、

「バーテンダーは耳が良いのです」

 これがバーテンダーという仕事なのかと、目から鱗が落ちる気分であった。”Bartender”の漫画だって、いうならば脚色だらけの作品なんだろうと斜に構えた読み方をしていた。それにこのマスターにだって、ベストも着ずネクタイもしていないんだと変な先入観のある目で見ていた。

「テーブル席の人と話をしていて、こっちの会話まで気にしているなんて凄いですね」

「うーん。そこまで見えているならきっと同じ事が出来ますよ」

 僕は目を丸くした。

「BARへ勤め始めたのでしょう? 頑張ってくださいね」

 そんな話もしていたぞ。ここまでくると怖いくらいだ。

(1597字)

『バーテンダーの視(め)』はお酒や料理を題材にバーテンダーとして生きる自分の価値観を記したく連載を開始しました。 書籍化を目標にエッセイを書き続けていきますのでよろしくお願いします。