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[note31]情報リテラシー(昨年のコロナ罹患から考えたこと)

「正しく恐れる」

これは新型コロナウイルスへの対応でしばしば用いられる表現である。未曽有の事態において、不必要に不安を持つのではなく、正しい情報に基づいて行動することを求めている…というのが一般的な捉え方。しかし、「正しく恐れる」ことは言うほど簡単ではない。先に自分の経験をまとめておくと、昨年夏にコロナウイルスに感染した。当時はデルタ株が猛威を振るっていた時期で現在のオミクロン(PA4、PA5)に比べて、肺浸潤があり、重症化リスクの高い状況であったと思う。自分は結果的に中等症Ⅱという診断がつき、2週間弱の入院を余儀なくされた。不安だけが強まる中で、自宅待機→ホテル療養→待機ステーションでの療養→入院と4段階を経たわけだが、その時に意識したことがいかに情報を遮断するかだった。

一度、情報を遮断する!?

本来、情報は欲しいはずだ。ところが、日々の情報は膨大で通常であれば、ある程度流してみることができる情報も必要以上に高感度にキャッチしてしまう。日々の感染者数や重症化割合、コロナ罹患後の一般的な経過、症状etcとあらゆる情報がキャッチできる分、何が正しいのかが分からなくなる。何が正しいのか、何が誤っているのかの判断も難しい。ネット上の出所の不明の情報ならいざ知らず、専門家の見解も少しずつ異なるからだ。また、当然だが、そうした情報は一般化的なものであり、自分に当てはまるわけではない。だからこそ情報の波に飲み込まれると不安を増すことにしかならない。情報は人をいくらでも不安にさせることができると実感した時間だった。当初、あまりに情報を負いすぎた自分は、それが原因が分からないが全く眠れない、いわゆる過覚醒という状態に陥った。それ以降、情報から意図的に自分を離すようにした。最終的に自分が把握したのは、日々の体温やSPO2(動脈血酸素飽和度)、採血所見(炎症度を見るCRPなど)だけになった。そして、それらが何を意味するのかを医師や看護師の方に聞く。それだけにとどめていた。

情報デトックス

デトックス(detox)という言葉がある。生理学的・医学的に生物の体内に溜まった有害な毒物を排出させることである。この呼び名はdetoxification(解毒、げどく)の短縮形である(Wikipedhiaより)。情報は有益であるが、過剰に摂取すれば、それは毒物となり得る。だからこそ、一度、情報から離れてみる必要がある。リテラシー(取捨選択能力)を発揮するためには、一度自分をフラットな状態に置かなければならない。これは当たり前だと感じるが、思いのほか難しいことであると思う。授業などを通して言葉として情報リテラシー、ネットリテラシー、ファクトチェックは扱うし、何が必要かという机上の理屈は説明するが、いざ自分たちが取り組もうとすると難しい。それがリテラシーというものだろう。だからまずは情報から離れることから始めてはどうだろう。もちろん、災害時などいち早く情報が必要になる状況はあるから、一概には言えないが情報から身を守る術を身に付けることができなければ、取捨選択も難しくなる。その上で、今自分に必要な情報は何かを俯瞰的に考えて、必要以上の情報源に当たらない。医療情報は必ずしも1人の医師、医療機関の見解だけでなく、他者の見解を踏まえることが重要であるとするセカンドオピニオンの考え方は重要であるが、3rdオピニオン、4thオピニオン、5thオピニオン…となれば、それは必ずしも有益ではない。メディアにも癖があるから、それを頭に入れておくことも重要。ネット情報はエビデンスを踏まえていないものが多い。このことも分かっていても、ネットの波に飲まれると飛んでしまうことはある。

教師としてリテラシーをどう考えるか?

ここが最大の問題であるが、やはりリアルな事象に対して、一度距離を取りつつ、自分が何を求めているのか?それを「問う力」が重要になると思う。情報の掴み方、情報の捨て方、距離の置き方、情報に基づく決め方、誤解を生むかもしれないが、意外と教師という職業は色々なバイアスに絡められていると感じることがある。それを客観視することができるなら、政治的中立の問題もコントロールできるのではないだろうか。自戒を込めて、自分が情報に対して、どのようなスタンスを持っているのか自身に問う夏にしたい。

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