見出し画像

互いに力量を見抜いている大禅師たち #禅の言葉

春蘭秋菊(しゅんらんしゅうきく)」という言葉がある。これは春の蘭と秋の菊のようにどちらも美しく、甲乙つけがたく比較するものではないという意味だ。似たような意味のもので、「卞璧(べんぺき)燕金(えんきん)」がある。卞璧は卞和(べんか)氏が発見した璧(名玉)のことである。燕金は燕の昭王が千金をもって千里の馬を求めようとした際に、身近なところから始めるという意味の「隗(かい)より始めよ」と勧めた郭隗(かくかい)賢士を最初に求め入れたことだ。いずれも、国の宝ともいうべき重要なものということを意味している。

力量まったく互角の二人の禅師のことを、春蘭秋菊とか、卞璧などと称えるのである。別の言い方をすると、知音(ちいん、本当に自分のことを分かってくれる相手)同士などと言う。

大禅師は、一度は大死底の人(すべてを捨て去った大死一番の人)となっている。大死底は真っ暗闇にいる状態であり、夜行の人と言っても良い。そのような状態になったら、絶後に蘇ることが大切だ。
このことを、「不許夜行。投明須到」(夜行を許さず、明に投じて須からく到るべし)と言うのだ。明は暁(あかつき、昼間)と同じで、我が本分の家郷(自己本来の面目)に到っているということである。だから、「真っ暗闇に至ったら、そこから戻ってこい。そのうえで本来の面目に従って昼間に堂々としているのが良い」と言うのは、一般生活の中に活かしていくことが大事だということだ。

大禅師同士のやりとりは、互いに「環中廓虚(かんちゅうかっきょ)」(環の中がからっぽの無一物)であるから、一方が活眼で探りを入れたら、他方が問題なく応酬する。要するに、互いの腹の中が分かっている知音同士なのだから、わざわざ家音(家郷の音信、故郷へのやりとり。世間話)のやりとりは必要ない。

****************************************************************
#禅語 #心 #ストレス #あるがまま #関係する人 #正しい見方 #禅 #禅の言葉 #迷いを放下する #新しい自分 #禅的自分学 #含蓄のある言葉 #生き方を究める #考えさせられる言葉

電子本の案内:

●ストレスをなくしてあるがままの「こころ」で生きる Kindle版 など
[Kindle 無料アプリをインストールして お読みください。]

●『「あなた」が変わる古典の言葉』
( https://amzn.to/3HybqFD  [短縮URL])
には、55の禅語を解説しています。****************************************************************

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?