「夢かうつつか」は「夢か現か」と書く(787)
時々聞く言葉に、「夢かうつつか」というものがあります。「眠っているのか起きているのかわからない」状態という意味で利用する人が多いかもしれません。たとえば「うつつを抜かす」という言葉は、現実であることに対する意識がはっきりしない(ある物事に心を奪われる)ということだと理解していれば、「うつつ」は「現実」のことを意味すると分かるでしょう。すなわち、「夢かうつつか」は「夢か現か」と書くのが正しいのです。
[参考] 「夢現つ」とは、夢と現実の境がはっきりしないさま。
おもしろい説話があります。紀元前3世紀ころの荘子が、次のような話をしています。
「私(荘子)は夢の中で胡蝶(蝶)になって飛び回っていた。ふと目が覚めると私は荘子であった。私が蝶になった夢を見ていたのか、それとも蝶が私になっている夢を見ていたのか・・・。」(『胡蝶の夢』より要約)
一般的には、「荘子が蝶になった夢を見ていた」と考えるのでしょう。荘子が夢を見ていたということですね。たとえば、荘子自身が「私は夢を見ていた」と考えるわけです。すなわち、夢は幻だと考えるわけです。
しかし、別の人(たとえば老子)が、「今のこの世界が夢なのだ」と言ったとしたらどうでしょう。
老子も荘子も聖人です。それぞれが別の(言葉上の)定義をしています。さてあなたなら、どちらが正しいと言うのでしょうか。
私は、どちらでもいいと思っています。それぞれの考える起点となるのが異なっているのですから、議論にはならないからです。
ここでもう一つ面白い話を見ておきましょう。
徳川三代将軍家光が、島原の一揆をどのように対応しようかと迷っていました。師と仰いでいた沢庵禅師に、島原の乱を「戦わずに済む方法はないか」と問うたのです。
沢庵は、「この世は夢です。夢の中に居ることもわからず、この世が実在すると思っている。人と争っても夢が覚めれば相手はいないのです。現(うつつ)と思うのも夢。勝って喜び負けて悲しむという自他の対立の夢で争うのをやめればいいのです。勝敗などない無の境地の人になられよ」と答えます。勝っても負けても、そこにとらわれてはならないということを諭したのです。
“夢か現か幻か”: 夢と現実といった対立にこだわると、最後には幻となって消えてしまう。
二元対立は、自分の心をあやふやにしてしまい、最後には何が何だか分からずに、知らないうちに時が過ぎていってしまいます。注意しましょう。
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