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教#037|感性はsharpで、ゆたかであることが、望ましい~ブルーピリオドを読んで⑧~(たかやんnote)

 神奈川に住む腹心の教え子のM子さんから、手紙が届きました。M子さんは、現在、子育て真っ最中です。日々の生活を、おおどかにenjoyする余裕はあまりなく、とんでもなく忙しい、二人の子供の子育て、すぐ近所に住む御主人の両親とのお付き合い、自分の両親の心配などに、忙殺されていると想像できます。子育てのこの忙しさだって、まあ、あっと云う間に過ぎ去ります。が、あっと云う間に過ぎ去ってしまう、この時間が、いとおしくて、せつなくて、それでも感性は摩滅しつつあって、これでいいのかと云う不安、疑問もあります。子供と一緒に、図書館に行った時、見つけた茨木のり子さんの詩を、手紙の最後に書いています。

「自分の感受性くらい」 茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心が消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもがひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 子育てに答えはないです。日々のファミリーの生活にも、これが正解で、これを続けて行けば、間違いなく幸せになれると云う、王道は存在しません。アンテナを多方面に張って、より良いと思える道を模索して行く必要があります。そのためには、感性はsharpで、ゆたかであることが、望ましいと言えます。

 私が中3の時、ビートルズの最後から2番目のアルバム「Let it be」(以前のノートにGet Backと書きましたが、正しくはLet it beでした)が出て、翌年、ラストの「Abbey Road]が発売されました。同級生の三分の一は、「Let it be」を聞いていました。「Abbey Road」は、もう少し少なくて四分の一くらい。当時は、50人学級でしたから(実際は52、3人)13人~17人くらいは、ビートルズを聞いていたわけです。が、その後もビートルズを聞き続けたのは、私とあと一人くらいです。つまり大部分がビートルズを聞かなくなりました。私もJazzやフュージョンを聞いたり、クラシックに傾倒していたこともありますが、どの時期も、最低限の教養として、洋楽のヒットチャートくらいは押さえていました。UKロック&USA音楽を聞き続けることによって、感性の摩滅をある程度、defenceしていたとは、多分、言えると思います。

 八虎は、高3になって、画塾の夜間部に通うようになります。現役コースってやつです。クラス担任の大葉先生は
「美術館に行く、画集を見る、絵・立体・写真・映像・漫画・文章、なんでもいいから、自分がピンときたものをファイリングする。もちろん、作品を作りながら。そうすれば、自分の好きがわかる」と、八虎にアドバイスします。自分の好きが解る=感受性を保つ、なんです。これはつまり、佐伯先生が、高二の夏の課題として出してくれたスクラップブック作りと同じです。

 自分が何が好きなのか解った上で、人生の軌道修正をして行く。bestの答えは、まず存在しませんが、betterな答えだとは多分、言えます。

 M子さんは、高校の卒業文集の表紙と裏表紙の絵を描いてくれました。今、手元にはありませんが(女房の実家の押し入れの段ボール箱の中にあります)卒業するboy & girlが、それぞれ一輪の花を持って、未来に向かって歩いて行きます。キリンさんや、カメ、シマウマ、ゾウ、サイなどなど、生きとし生けるものも、花をくわえて、一緒に歩んでいる絵です。creativeでfantasticなイラストでした。今、子育ての真っ最中ですが、彼女にしかできないオリジナルな、わくわくするような、子育てをしていると信じられます。

「かくかく」のあと「ブルーピリオド」と云うやはり美大受験の漫画を選びました。油絵、日本画、彫刻は、画材が高いので、デザインでいいだろうと、無理やりな進路指導をしたことも、まあありますが、美大進学そのものに反対したことはありません。

 私は、高校を卒業して、早稲田の政治経済学部に進学しました。政治経済学部に進学したことは、人生の最大公約数的な答えのような筋道を、だいたいにおいて進んで行くと云うことです。30代になって、教師になり、仕事をしながら、第二文学部に入り直しました。第二文学部は、答えのないカオスでした。政治経済学部は、たとえ感性が摩滅しても(つまりビートルズを聞かなくても)最大公約数的な、安全な道を進んで行けます。当時だったら、やっぱり銀行就職です。政治経済学部生の三分の一くらいが、銀行に就職しました。あと、メーカーならどこでも行けるって感じでした。第二文学部は、カオスで答えがないので、感性が摩滅したら負けです。

 美大に進学して、感性が摩滅したら、授業の課題の作品すら提出できなくなります。早稲田の第二文学部を潰して作った、文化構想学部は、残念ながらと云うべきか、幸いにもと云うべきか、カオスではありません。早稲田の今や看板学部に躍り出ようとしている国際教養学部は、無論、カオスではありません。国際教養学部には、最大公約数的な「解」が、そこら中に、転がってそうです。今、トレンディなグローバルに完全に乗っかって、リンクしています。

 美大は、カオスです。普通のまともな考えで進もうとしたら「負け」みたいなとこがあります。が、普通のまともな考えも、どこかで担保しておく必要があります。カオスを生き抜くためには、常識が必要だと云う二律背反的な矛盾が、美大には存在しています。「ブルーピリオド」が、そのあたりを、どんな風に解らせて行くのか、あるいはスルーするのか、まだ途中までしか読んでないので解りません。全巻を一気に読んで、すべてが解った状態で、エッセーを書くと云うスタイルもありますが、現実の人生は、すべて、日々、手探りで進むわけですから、まあ、手探りで、あっちこっちで脱線しながら書いて行くと云うスタイルで、いいかなと思っています。

 ところで八虎は「描くのは好きだけど、見るのは苦手なんだよな」と呟きます。が、これは、ないです。描くのが好きであれば、100パーセント、他の人の作品を見るのも好きです。私は、文章を書きます。文章を書くことは、まあやっぱり好きです。じゃなければ、ブログを書いたりはしません。文章を書きながら、いろんなことが解って、視野が広がって行く、そういう過程が好きなんです。完成した文章が、好きってことはありません。そもそも、未完成で、途中経過って感じです。が、それでも、いったん打ち切って、清書をする、そういう習慣をつけただけのことです。完成を目指していたら、人生が終わってしまいます。そういう真実に気がついたと云う言い方もできます。文章を書くのは、まあ好きです。他人の文章を読むのは、とても好きです。それが、素人の生徒の文章であっても構いません。35年間、試験の度に、生徒に作文を書かせていました。非常勤講師になって、同じことができるかどうかは、微妙です。が、生徒が、シナリオや小説を読んで下さいと持ち込んで来たら、その日の内に、読んであげる気持ち、満々です。

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