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自#107|大学の存在意義(レーゾンデートル)が問われている(自由note)

 東京は、連日、大量のコロナ感染者が出ているのに、市民生活は、ほぼ日常に戻ってしまいました。もっとも、電車は、多少、空いています。私が朝、乗っている中央線の乗車率は、以前の7割くらいです。つまり、3割くらいが、テレワークor オンライン授業に移行ていると推測できます。高校は、7月から通常の対面授業が始まっていますが、大学は、オンライン授業を続けています。

 大学は、いまだに300人くらいを大教室に集めて、先生が、マイクを使った座学をやったりしています。徹底した少人数教育が望ましいとは思いますが、それをやると、経費がかかります。アメリカの一流大学の授業料は、日本の私大のざっと4、5倍です。国立大と比較すると7、8倍。よい教育を受けるために、高い授業料を払う、経済の原理に照らし合わせると、当たり前の理屈ですが、日本人には、この常識は浸透してませんし、偏差値が低い、カリキュラムの薄い、よりしょぼい大学の方が、一流大学より授業料が高いと言う逆転現象も、しばしば見られます。

 私が、教師になった頃は、1クラス、50人でした。留年生がいたり、余分の人数を取ったりして、実際は52、3人いました。52、3人の顔と名前が完全に一致すれば、50人ほどの規模で、授業をやることは、できなくもないです。高校のクラスは学活や掃除、行事などがあり、授業以外の場面で、生徒はつながっていますから、コミュニティとして機能しています。

 100人を越えると、ひとつの有機的なコミュニティとして機能することは、かなり難しくなります。以前の学校で部活の顧問をしていた時、部員数が100人を越えている年は、普通にありました。私の経験から判断すると、コミュニティとして、ひと塊で把握できるのは80人くらいまでです。それ以上になると、まとまることが、物理的に不可能です。ですから、まず各学年のコミュニティを拵えておいて、1年と2年の2つのコミュニティをひとつにまとめると云う方向を目指しました。3年生は、5月のゴールデンウィークの最終日に引退だったので、自ずとそういうスタイルになってしまったんです。1、2年生の合計の80名くらいでしたら、何とかまとまれます。

 もっとも、これは部活の話です。80人のクラスを、ひとつのコミュニティとして捉え、まとまった、いい授業をやれるかと云うと、正直、疑問です。学年集会とか、始業式、終業式は、300人or 900人くらい生徒が集まるわけですが、こういう集まりは、ただ一方的な伝達をしているだけです。この人数で、授業をやれと言われても、成立しません。

 300人を大教室に集める授業は、対面よりもリモートの方が望ましいです。もう一歩、踏み込んで言えば、その授業は、消滅しても構いません。参考文献を読んで、自学自習していた方が、はるかに効率良く、深く勉強できます。

 私は、早稲田の政治経済学部を一応、卒業していますが(一応とつけざるを得ない不勉強な学生時代でした)大教室の授業には、ほとんど出席してません。私だけではないです。8、9割の学生が、出席してなかった筈です。で、1割くらいの学生が出席し、真面目にノートを取って、試験前になると、そのノートのコピーが、廻って来ると云うシステムでした。もっとも、1年生と3年生の2回は、学費値上げ闘争があって、革マルが試験会場に乗り込んで来て、試験は中止になり。学校側が校舎をロックアウトして、レポート課題に切り替わりました。レポートになってしまえば、授業のノートのコピーなどは、ほぼ無意味です。

 300人以上の大教室で授業をやらないと、経営が成り立たないのであれば、その大学は潰れて構わないと思います。もう、それが許される時代ではないと云う危機感を、大学側も持つべきです。仲のいい教え子が、学校への通学の往復時間がなくなるし、リモート授業の方が、はるかにいいと、手紙に書いて知らせてくれました。対面よりリモートの方が、はるかにいいと云うのは、つまり大学の存在意義(レーゾンデートル)が問われていると、私は想像しています。英語力を鍛え、英語でlisten toできるようになれば、openになっている、世界中の一流大学の優秀な先生の講義を聞くことが可能です。英語力を鍛え、ITに精通し、世界の一流大学の先生の講義を聞いて、知力を備えた優秀な若者がいれば、大学卒業の学歴がなくても、先見の明のある優秀な人事担当者であれば、そういう若者を獲得しようとする筈です。別段、雇用されなくても、優秀な若者であれば、自ら起業をすることも考えられます。

 リモート授業では、気を感じ取ることができないと、早稲田で講義を受け持たれている詩人の伊藤比呂美さんは仰っていました。が、これは、レベルの問題です。対面の方が、気を感じ取り易いのは事実ですが、リモートでも、努力をすれば、気を発することはできるし、感じ取ることも可能です。そうでなければ、映画を観たりする筈がないです。実写の人間ではなく、アニメのキャラクターであっても、気は感じ取れます。サイコパスの槇島(まきしま)や狡噛(こうがみ)、攻殻機動隊の草薙と云ったキャラクターは、私が所有しているちっちゃなパソコンの画面で見ても、明らかに気を発しています。

 東進ハイスクールさんが、映像授業を始めたのは、long long time agoのはるか昔なんですが、あれが登場した時、教育現場にいる人間は、対面授業の価値について、真剣に考えるべきでした。対面授業で、ただ単に知識(正確には情報と云うべきですが)だけを伝えるのであれば、優秀な予備校の先生が担当されるビデオ授業に太刀打ちできません。ところで、映像で気を発してもらうためには、キャストの才能、努力も必要ですが、映像を編集するスタッフの高いスキルも要求されます。映像と云うのは、きっちりと編集しないと、単なる素人のYouTubeのような(まあ私自身のことも含めて)、gdgdの動画になってしまいます。

 幸いなことに、私はまだ、学校現場にいます。これまでのように、部活の生徒が、各クラスに相当数いて、どんなにネタが滑っても、あったかい目で見てくれると云った風な、さくら的な応援団は、もう存在してません。現在の私は、徒手空拳です。ですが、やっぱり自分自身が気を発し、生徒の気を感じ取り、その気を受け取って、よりノリのいい授業を目指す、そういう方向しか、結局はないと判断しています。そのための、ジョギングであり、腹筋、懸垂であり、ストレッチであると、自分では思っています。健全な肉体に、健全に授業は宿るって感じです。

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