え!?この状況のディストピアでも入れる保険があるんですか!?(1)

「ω321、ココアが冷めてしまうよ」

O-918に指摘されて僕はふと我にかえった。

僕たちは1217秒前にカフェに入り、901秒前にコーヒーとココアを提供された。O-918は実に気のいい個体だ。3日前から落ち込んでばかりの僕を見かねて、精神的ケアのために大衆向けカフェテリアに連れ出してくれた。僕は五感のうち味覚が未発達なため、セラミックから抽出したコーヒーを飲むことができない。しかしセラミックから抽出したココアは好ましいと感じている。その証拠に、僕らの体内を常時監視しているナノチップは、ココアを口に含んだ時の僕の眼科前頭皮質は活発に活動していることを伝えている。勿論、紙ベースはとうの昔に廃れているため、眼球を伝導体とするダイレクトスクリーンでだ。僕たちがいる環境の酸素濃度からすれ違う人間の出生地まで、ダイレクトスクリーンはX線検査よりも遥かに明瞭な情報を僕らに提供する。

僕が落ち込んでいた理由というのも、ダイレクトスクリーンから得られた情報に由来するものだった。O-918の言葉ではっとした僕は、白磁のカップを手に取る。甘い湯気に鼻孔を擽られた瞬間、右下の個体情報値が変動し、脊髄視床皮質路の働きを告げた。

「それで、どうして君はそんなに落ち込んでいたのかい?精神的、肉体的な健康状態は損なわれていないのに」

「O-918、これは健康の問題じゃないんだ」

「じゃあ一体何が気に食わないんだい?」

「なにも」

「どういうことだ?君は心身共に健康であり、それは君と、僕のダイレクトスクリーンが保証している。生活に支障がないというのに、君は何をわざわざ悩むというんだ」

「なぁ聞いてくれO-198……僕はたまに思うんだ……僕たちは肉でできた人間だ。しかし天然の肉は放置しておくと腐るというように、僕たちの肉体も精神も、慢性的な静止には耐えられないんじゃないかって…。僕たちは人工の技術で天然をやめたのかもしれないが、それでもアウストラロピテクスの性質は受け継いでいるはずだ。そして彼らと同じように、僕たちは原始的な情愛によって……」

僕は混沌のうちにある煩悶の一部を述べていた。しかしそれを上手く説明できるほどの言葉は現代には存在しえず、僕らが身に着けている画一デザインのファストファッションのように、O-918に伝わらない表現は僕自身にも伝わっていなかったのである。

「君は一体何が言いたいんだ?」

O-918は苛立たしげに、眼球をわずかに右下へ向ける。そこはダイレクトスクリーン上の時計にあたる位置であり、O-918は今せわしない心理状態に置かれていることが見て取れた。そして僕のダイレクトスクリーンも、O-918の血中アドレナイン値が上昇傾向にある事を告げている。アドレナインの分泌は個体の健康にも障る厄介なものだ。だから僕は慌てて、

「すまない、O-918。やはり僕の勘違いか何かだったようだ。わざわざありがとう」

O-918はそれを聞くと、満足そうな表情で瞳を閉じた。おそらく仮想空間での冒険に出かけたのだろう。O-918の血中セロトニン濃度が目に見えて上昇した。

結局今日一日の間に僕がO-918と会話した時間は325秒だった。2128年現在においては、これでも十分なほどの長時間である。



今日の僕はカフェではなく、ピンクのセラミックで練られた道を歩いている。すれ違う人、すれ違いそうな人、おそらく駆け足でもすれ違うことがない人、僕を含め皆同じ服装だ。セラミック製の白シャツと白パンツは、華美や貧相といった旧概念を取り払い、僕たち個体の真に解放された姿を可能にした。愚かしくも旧時代の個体は美醜の判断によって同位体の尊厳を傷つけ、あまつさえ娯楽にしていたという。そんな残虐で野蛮な文明に終止符を打ったのは、僕たち個体を管理しているプロビデンスだ。彼らの革命は旧世界の穢れた倫理を一掃し、完ぺきで瑕疵のない多個体生活を実現させた。先に述べたダイレクトスクリーンもプロビデンスの発明によるものだ。一部のオカルトチックな陰謀論者は、ダイレクトスクリーンの開発をプロビデンスではなくオーリー・スパニエルという、2098年に活動停止した個体によるものだと考えているらしいが、メディアを通じて証拠に挙げている品は全て、事実の捏造が可能な紙媒体でしかなかった。だから世間では彼らの説は笑止千万の滑稽なジョークとして扱われることが大半だ。でも僕は不思議と彼らが嫌いになれない……道化は大好きだ……

「こんにちは、ω321」

ふと、僕の後方2.1mから女性個体の声がした。振り向いた先には、白シャツ・白パンツの恰好をした、長い黒髪の個体がいる。

「こんにちは、M-111。今日の健康状態も良好なようで何よりです。生理は終わったのですね」

僕はダイレクトスクリーンが提供する彼女の情報を、ありのまま伝えた。脂肪が寿命を縮めるように、無駄な修辞は対個体への優位性を低める。それをいち早く啓蒙していたのも、プロビデンスだった。M-111は口角を半月状に歪めニッコリとほほ笑み、

「ええ、幸せなことに、私は心身ともに健康です。生理が終わり血液の流出が止まったことも関係しているのでしょう。今の私はとても晴れやかな気分です。やはり健康状態が良好だと、幸福値は上昇するのですね。……『健康即ち是幸福也、プロビデンスの羊として導かれん!』」

M-111はウキウキした様子でプロビデンスの標語を唱えると、私に一層近づいた。瞬間、私の鼻孔を甘い体臭が擽る。しかし私は右下の個体情報値を確認しなかった。

「ω321。よろしかったら今晩、私とお茶でも如何でしょう?」

M-111の眼球がセラミック特有のギュルリとした光沢を放つ。思わず図鑑に載っていたヘビとかいう脊椎動物を連想させる無垢に、僕の頸部は下45°への移動を余儀なくされた。


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