見出し画像

恍惚に掻き消されたもの


大学受験を控えた高校3年の裕介は、学校をサボり近くの百貨店へと入る。そこで最近になり学校を欠席しがちな同級生の柳田かおりを見かける。担任である服部と柳田の売春行為に行く途中だった。裕介は服部に罰を与えることを決意する。部活や受験を描いた短編ミステリー小説。



1

 合格しても卒業できんからな。
 あの言葉が僕をここまで追い込んだんだ。

 いつものように頭を痛めつけるもの、ソレのせいだろう。どこで昼食を食べようかなぁとぼんやり考えながら、駅のまわりをブラブラしていた。ありきたりの食事でもいいから一人になれるところがいい。
「最上階にレストランモールってあったよな、たしか――」
 通りがかった大型百貨店へと入っていった。

 横大路裕介、高校3年生。センター試験まであと4ケ月という大切な時期にもかかわらず、息抜きと言ってしまえば聞こえはいいけれど、どちらかというとサボリにも似た行動。一つの逃避だろうか、裕介の受験勉強への意気込みは、最近になって急激に浸食され続けている。

 いわゆるレストラン街と呼ばれる最上階のフロアまで、エレベーターでのぼって行った。近くで国際会議でも開かれているのだろうか、それともどこか外資系の会社から来ているのだろうか、スーツ姿で胸ポケットに青いネームプレートを付けた、図体のデカい外国人と流暢な英語を話している日本人が、裕介と同じタイミングで乗り合わせた。
「チッ」
 隣に立っている外国人の男が、裕介を見ながら舌打ちした。日本人のソレよりも「チ」の音が、どちらかというと「テ」の音に聞こえた。
 確かに日本人と比べると背は高いのだが、彼らの食生活がそうさせているんだろう。そして生まれつきそういう遺伝子を持った体質なのか、腰回りの肉が付き過ぎている。いや単に腹が出ているというのではない、頭から足のつま先まですべてがひと回りデカい。だからこの外国人の場合は、その太り具合が比較的に気にならない。

 裕介は、隣のたわいも無い会話を流暢な英話で話している日本人と、偉そうに振舞っている外国人にいつの間にか嫌悪感を抱いていた。裕介の隣、でかい声で話しているそいつらの態度に、イライラが頭の上から這い出しそうだった。今まで一度も試したことはないが、この言葉を無音声で口パクしてみた。
「Fu・・」
 一瞬、ギュッと厳しい目つきで裕介を睨みつけた。顔を真っ赤にしたその外国人は、まったく気にもしないような振る舞いで、隣の日本人と話を続けている。しかし明らかに動揺しているその顔のひきつり方は、隣で見ている裕介の朝から続いている頭痛を、すっぽりと覆い隠してしまうくらい緊張感のあるものだった。しばらくするとこんなエキセントリックな素振りで煽っくる少年なんか相手にしないほうがいいといった雰囲気で、そのまま隣で話し続けていた。
 打算的には程遠いようなその行動も、このときの裕介の心理状況にとっては十分説明できるものだった。

 チ―ン。最上階に着いた。
 足早にエレベーターを降りていったその外国人の背中を眺めながら、裕介は昨日の夕食を思い出していた。
「えーっと……」
 少なくとも昨日食べたものだけは避けよう。
 当然ながら、高校生の裕介にとって昼食に何千円もかけるわけにはいかない。アルバイトだってやっている訳でもない。僅かばかりの小遣いと、たまには入る臨時収入が頼りなのだから。ぐるりと巡ったレストランモールだったが、安くて美味そうなところは満杯で入れなかった。

 しゃあないなぁと、そのままエレベーターの乗り降り場に戻った裕介。
 目の前のエレベーターから出てきた制服、それはまさしく裕介の通う高校のものと同じグレーを基準にデザインされたブレザー。そのネクタイの色からしても間違いない。
「あっ……」
 思わず声を出した。
 その女子生徒は一瞬だけ驚き、そのまま顔を下に向け隠すようにして早足で裕介を通り抜けていった。同じクラスの柳田じゃないか? ただ、裕介は柳田の前を歩いていた男の存在には気づかなかった。

 柳田かおり。
 裕介と同じクラスの生徒で、ごく普通のおとなしい女子高生。とりわけ勉学が優秀と言う訳でもない、スポーツや文化活動をがんばっていると言う訳でもない、そして男好きするような女としての魅力もなくはない程度だと思う。ただ、どういう理由があったのかは知らない、彼女が学校に出てこなくなったのはごく最近のことだ。人当たりも良く、休み時間ともなると彼女の机のまわりに数人の友人らしき女子生徒が集まり、雑談していることも少なからずあった。そして友人から特に無視されているという感じでもなかったはずだ。

 高校3年の大学受験を控えた何となくピリピリとした空気感。朝補習やら小テストといった毎日のように繰り広げられる受験のための勉強。いいかげん生徒にまかせてくれないものかと考えても、自分でやり遂げられる自信はなかった。
 模擬試験の結果だけ見ると、とりあえず自宅から通える相応の大学には入れるかもしれない程度の判定結果。超有名大学への進学を完全に諦めた訳ではないが、こんな所でさぼっている自分を入れてくれるような甘いもんでもないだろう。そして最近では、それなりのところでいいや、そう思っていた。

 それはそうと、裕介を見るなり隠れるように逃げていった柳田かおり。今までの教室での彼女のふるまいを思い出してみると、裕介にとってそれはかなり意外な行動だった。そして、彼女の方もまさが裕介が同じ百貨店の最上階に、同じ時間帯に居合わせるとは思ってもみなかったのだろう。実際、他の生徒は学校にいるはずの時間帯に、この高校の制服を街中で見かけることはあまりない。

 裕介の自宅。
「ジャニロクワイ」を聴きながら、数学の問題を解いていた。
 裕介の”ながら勉強“は、もうソレなしでは退屈すぎて、何のために勉強をしているのか判らないくらいのものとなっている。特に数学の問題を解くときのシャープペンの筆の運びと脳みそ間での神経の伝達は、ノイジーではない良質の音楽を必要としていた。
 とりわけ自分の部屋というものを与えられていなかった裕介の家では、そのほとんどをヘッドフォンで聴くことが多かった。お気に入りの曲を延々と繰り返し聴いていた。何度聞いても飽きのこないもの、そしてそのリズムが試験の問題を軽快に解かせてくれるはずだと思っていた。


 次の日。
 授業終了のチャイムが終わると同時に、裕介は机の左側に置いてあったカバンを掴むやいなや廊下に出ていった。一つ隣のクラスはまだ授業中である。それに気づいた裕介はあわててすり足で廊下を急いだ。隣のクラスの前の廊下を通り過ぎると、足早に校舎を出た後に、柔剣道場へと向かった。剣道場と柔道場が一緒になっている建物のことで、格好は違えども構造的には平屋のような感じだ。そして各道場は別々の空間に分かれており、間に扉が一つだけある。そこを通路代わりに使用している。3年となった裕介にとって、部活動はすでに引退しているはずなのだが、高校に通う理由が勉強のみという事態は裕介にとって耐えられないのものとなっていた。

 裕介の通う高校の剣道部は、以前は他の高校に比べるとどちらかというと弱いほうだった。それはしっかりと専門的な指導をしてくれる顧問がいないという理由だけではなく、入部してくる部員のほとんどが初心者なのだ。中学時代も剣道部に所属していたこともあり、またある程度の鍛錬をしてきた裕介にとっては、かつての弱小剣道部の練習はたいして苦痛ではなく、いろいろなストレスを思いっきり発散してくれる相手のいるところだった。はじめの頃は、そういう初心者相手に思いっきり叩きのめしていた。そうこうしていくうちに稽古してくれる相手があまりいなくなってしまったため、結局自らが彼らを指導するようになった。もともと剣道に興味があったので入部したのだから、彼らの上達も早く、一年も練習すると裕介から一本ぐらいならとれる腕前になった。

「佐々木、もっと声出せ!」
「はいっ」
「乾、ちゃんと絞って打て!」
「うっす」

 もともと形式上の顧問しか存在しない剣道部、3年生となった裕介が実質的な指導者だった。見た目にはちゃんと指導しているが、気持ち的には他にやることがないからという程度のものだ。同期の3年生部員は既に引退しており、この時期にここにいるのは裕介だけになった。
「よーし、整列」
 1、2年生部員が全員、道場の中央、裕介の立っている前に並んだ。全部で6人しかいない。団体戦に出場できるほぼギリギリの人数。そのうち中学時代での剣道経験者は一人しかいない。

「そろそろ、地区大会も迫っているし、今日は二つに別れて試合をやる。来週には、A高校と練習試合も組ませてもらっているし、今日の動き次第でどこを務めるかを決める。いいな」
「はい」
「じゃあ、乾チームと佐々木チームで別れろ。試合は三本勝負。時間は無制限」

 乾と佐々木。
 裕介の育て上げた奴らだ。このうち乾に関しては、中学に剣道を経験しており、その腕前は裕介と同じくらい、個人戦ではある程度のところまで勝ち抜ける実力を持っている。佐々木はというと、高校から剣道を始めたらしいのだが、もともと陸上をやっていたせいか、バネがすばらしく良く、そのチーターのような瞬発力を生かした強風のような面は上級生をも手こずらせるほどだった。
 この二人が強くなった今では、彼らは指導している裕介の誇りでもある。今年は人数的にもぎりぎりで、さらにこの二人に勝ってもらわないと団体戦を勝ち進むのことは困難だろう。

「横大路さん、そろそろ奴が来ますよ」
 乾がそう言いながら、道場の入り口の方に目配せした。裕介は入り口のドアの上にかけられた時計を見ながら、
「そうだな」
 乾の言う奴。
 それは裕介のことを嫌っているのか、それともいじめているのかよく分からないが、間違いなく良くは思ってはいないと思われる奴のことだった。

 服部誠一。
 剣道部の顧問、そして裕介の担任でもある。
 何かと裕介のことを目の敵にする。そう思っているのは自分だけだろうか。いや客観的に見てもそうだと思う。それは顧問を務める剣道部を実質的に指導しているのが裕介であるという理由だけではない。それ以上に裕介の担任であり、服部の受け持つ科目、つまり英語が裕介の最も苦手な科目であるということ。裕介の場合、すべての科目の成績が、ほどよく悪かった。そして英語だけがそれ以上に極端に悪いのだ。

 毎日のように繰り返される英単語と例文の暗記。裕介にとって、そういう根気を必要とする脳の作業は退屈なものとしか感じられなかった。
 そして何より、服部そのものの存在が嫌いだった。
 こいつの授業は、ファンじゃないのかとも受け取れる生徒どもと、奴とのコミュニケーションの場と化している。明らかにえこひいきをしたその教え方。そしてそれが担任であるために、裕介の校内での受験勉強に対するモチベーションにかなり影響している。

「横大路君、君はそろそろ受験の準備はしなくていいのかい?」
「ええ、まあ、そろそろ……」
 服部は便所に使ってそうなサンダルを履いていた。横大路の高校生活に関係するほとんどにこいつが絡んでいる。そしてそれが、卒業後の裕介の将来までをも変えてしまうかもしれない大切な時期だというのに。
「英語はきみの志望している大学の二次試験にもあるだろう。真面目にやらないとあとで後悔するぞ」
 服部の言っていることは少なからず当たっていた。合格と不合格の鍵は英語が握っているかもしれない。そしてそれが小手先の勉強では身に付かないということも理解している。
「それに君みたいな生徒は推薦にもできんしな」
 最近になって周りで推薦の話をよく聞く。生徒会活動や部活動、そして定期試験の成績がいい生徒は、いつの間にかこの推薦入試という制度を利用して早々と合格を手にするらしい。
 部活動はともかく、担任のうけもつ英語が最も苦手であった裕介にとって、そういったことを考えることは無理なことだったし、まず奴にお願いしなければいけないことがどうしても我慢できない。

「では――」
 聞く耳を持たないといったような裕介の態度。服部に向かって軽く一礼すると、裕介は道場から離れていった。
「気合入れろ、山中!」
 背中のほうから、自分のチームの先鋒に向かって叫ぶ乾の声がした。

 自宅の夜。
 ラジオを聴きながら、物理の問題を解いていた。
「――次は、柳田かおりさんからのリクエスト、ジャニロクワイで『セブンデイズ・イン・サニージュライ』です、どうぞ」
 ギターの出だしにピアノが絡んで流れた。小さい波に、中くらいの新しい波が重なって伝播しているような感じがした。裕介のお気に入りの曲だ。そしてリクエストした人物「柳田かおり」に反応し、それまでの問題を解くことを止めた。
「柳田もこの番組、聴いてんだ。それにジャニロクワイなんてリクエストしてるし……」
 裕介は先日、大型百貨店の最上階で会った柳田かおりに、なんとなく親しみを覚えた。最近になって学校を欠席するようになった彼女。
「とりあえず自宅でラジオは聴いているらしいし、リクエストしてるくらいだから、そんなに深刻ではないのかな」
 裕介は一人考えていた。

「そういえば、あのとき――」
 裕介は変なことに気が付いた。
「あいつ、制服着てたよな。あの日……学校に行ってたのか」
 ここ一ヶ月くらいずっと学校を欠席していた柳田が、あの日だけ学校に行っていたというのも変ではないだろうか。それならば、なぜあんなところにいたのだ。ひさしぶりに登校して、やはり気が変わって下校し、その辺をうろついていたというのか?
 なんだったんだろうなぁと、あの時、隠れるように去っていった柳田のことを思い出していた。しばらく考えたが、特にどうといった答えも見つからずに、彼女のリクエストした曲の終わりを聴いていた。

「この問題が終わったらひと休みしよう」
 くたびれた感のあった裕介は、心の隅っこに、柳田かおりの残像のような、何かを感じ取っていた。そしてそれが、裕介本人に降りかかってくることは予期していなかった。


2

 次の日。
 柳田かおりが彼女の席に座っていた。クラスの連中は、普段と変わらない雰囲気だ。あえてそうしているのか、彼女の存在を気にも留めていないような周囲の無反応があった。比較的におとなしい感じのする柳田にとって、周りからいろいろ聞かれるよりも、あえて相手にされないほうが気が楽ということもあるだろう。ただ、心のどこかに何か引っかかるものを抱えていた裕介は、今まで気に留めていなかった柳田の存在が気になっていた。

「柳田……さん」
 このクラスになってから、おそらく初めて話しかける。裕介は彼女の席の近くまで行くとそう切り出した。とりあえず「さん」をつけてみた。
「あっ」
 柳田は、ちょっと驚いたような感じて裕介を見た。普段、まったく接点のない二人だっただけに、お互い相手の異なる空気感を新鮮なものとして受け取っていた。
「あの……横大路君、この前のこと――」
「あー、何やってたんだよ、あんな所で?」
 裕介は、同じように学校をサボっていた柳田に親近感を抱いていたことから、そう言った。
「べつに」
 彼女は、何か他のことを言ってくれることを期待しているかのような顔をした。
 裕介は、彼女が何かを請うようなその態度に、
「何かあったの?」
 そう聞いてみた。すると、
「うん……まぁ」
 少しばかり前方の床に向かって、合っていない焦点をなんとか合わせようという、気持ちの揺らぎがあった。
「俺なんか、部活しに学校に来てるようなもんだしさ、柳田だって――」
「いや、そういうことじゃなくって」
 遮るようにして柳田は言った。目はじっと一点を凝視しており、その決意の強さを表していたのだろうか。
「ごっごめん」
 やはり何もなかったというような、力の抜けたような顔つきに変化してしまった柳田を見ながら裕介は、
「何もなければ、別にいいんだけど……」
 周りに視線を移しながらそう言った。
「うん」
 うつむき加減に申し訳なさそうにしている柳田がいた。柳田と少しばかり仲の良い、近くに座っている女子生徒らの視線が気になったのか、裕介のことを煙たがるような雰囲気を見せていた。
「じゃ」
 もういいやっ、といった感じで手を広げながらその場を去ろうとした裕介。
「あ、ありがと――」
 裕介が、隣の椅子を立ち上がったタイミングと同時に、そう呟いた。
 一瞬、裕介の動きが止まると、
「ジャニロクワイ好きなんだ……」
 こういう言葉をいいタイミングで伝えられない裕介に、一瞬はっとしたかのような柳田の顔が、僅かに笑みを帯びた。

「今日もテスト、明日も――、ずっとだ」
「合格するまで続けられる詰め込み型ともとれるような教育。これが将来何の役に立つというんだろう受験以外に……」
 勉強しない言い訳を考え始めた裕介。無意識のうちに自分から脱落していこうという思いが見え隠れしていた。

「えー、君たちにとって最も重要な試験が、あと数ヵ月後に迫っている。うちのクラスはほとんどがセンター試験を受けることになるだろう。二次試験の勉強ももちろんしておかなくてはならない、だが、まずはセンターだ」
 呪文のように毎日繰り返されるこういった気合を入れるためのお言葉。もうちょっと気の利いた呪文でもかけてくれと願っていたが、それは服部の声だ。裕介の嫌気と眠気をあおるかのようないやらしい声。

 教師の中にも眠気をさそう声と、そうでない声の二通りがある。おそらく声帯か何か共通しているのだろう。そしてそこから発せられる音が、勉強している高 校生の脳みそにとって、心地よく眠気をさそう音なのか、雑音じみた音なのか、そして吸収されやすい良質の音なのかにより、その意欲を左右する。服部の声は、間違いなく悪質な雑音じみた眠気を誘う音だろう。少なくともアンチ服部として、自分自身でブレインウォッシュしていた裕介には、そういう音に聞こえて しまっていた。

「横大路、何ぼーっとしてんだ。ちゃんと話を聞いとけ」
 服部の叫んだような声がすると、周りの生徒の視線がいっせいに裕介のほうに向いた。はっと気がついた裕介は、ほくそえんでいる右隣の生徒と視線があった。女子生徒は、瞬時にそれをズラすと、前に座っている友人の背中をシャープペンシルで小突いていた。
 ムカつく。
 いい意味で教師からよく可愛がってもらっている裕介であったが、それをマイナスの方向に吸収してしまうのが裕介なのだ。そして、そのストレスをこの時期になってコントロールできていない。水先人を失った小さい船のように、あたりをふらふらしている裕介だった。

「あとなぁ、部活動。3年生は既に引退しているはずなんだが、まだ行ってる者もいるだろう。特には言わんが、そろそろ気持ちを切り替えて勉学に励んでほしい、いいな」
 服部は裕介のほうを見ながら言っていた。
「はいはい」
 浅く座っていた腰を、少しばかり深く座りなおし、同時に腕を組んだ。
「ふっうぁ~」
 とっとと終われ、というような顔つきで、横を向きながらあくびをする裕介だった。

「じゃあ、一限目は英語だからこのまま始める。教科書・ノートをしまえ、単語テストだ。覚えてきたろうな」
 毎度おなじみの小テスト、10問中8問の正解で解放、それ以外は居残り再テストだ。英語、古文、漢文、一日で3回もの小テストがある。
 採点時間になると、毎度のことながら隣の女子生徒の小ばかにしたような態度があった。隣どうしで交換して採点するたびに、その生徒から軽蔑のまなざしで見られる裕介。既にマンネリ化したそのやりとりで、その女子生徒にすでに尻に敷かれている状態だった。

 4点。
 そう赤く書かれたペーパーを女子生徒から渡された。それでも彼女の目一杯の「配慮」を含めた点数なのである。そのせいか、その子にはどうしても頭が上がらない裕介だった。
「じゃ、8点に満たなかったものは放課後までに覚えとけよ」
 チョークを握る服部だった。

「は~」
 一日に何回ため息をつくだろう。一年のころ「要するにつまり」を連発する数学の先生がいたため、一コマで何回それを言うかをカウントしたことがあった。自分で自分の溜息をカウントするのもつまんないなと思いながら、採点されたペーパーをブレザーのポケットの中でくしゃくしゃにした。
 チャイムが鳴った。
 英語の授業が終了、いつものようにガンガンとした頭痛が、とりあえず消えた気がした。

 休み時間に入ると、めずらしく柳田が裕介の席の隣に立っていた。
「あの……」
「おっ、おー」
 びっくりした裕介、柳田の顔を見上げた。
「何?」
「ちょっと……」
 腰の下のあたりで手招きしながら、ベランダへと出て行った。
 午前中のベランダは、心地よい眠りを誘うには少しばかり早い時間帯だった。他には誰もいない。
 うつむいていた柳田が照れくさそうに話し始めた。ひそかにラブレターでもくれるんじゃないかと思った裕介は、何だろうと期待に胸を膨らませていた。

 しばらくの沈黙の後……。
「私……」
「実はあの日、無理やり――」
「……」
 あまりにも唐突過ぎて、即座に反応できなかった。
 この目の前の柳田が?
 裕介の日常からすると、かけ離れた現実を突きつけられた感じがあった。そして、どう答えていいものかと悩んだ。
「だっ、だれに?」
 裕介の声が小さくなった。
「それは」
「どっ、どうして?」
「だって……」
 答えようかどうしようか迷っている彼女の姿があった。柳田は一瞬、裕介の顔を見てからすぐさま下を向きなおした。おそらく、それがあった頃ぐらいから学校を欠席しがちになったのだろう。
「まさか、まずいこととかやってんじゃ……」
 声が上ずった。裕介は周りに気遣うように、柳田の肩に手をやり、その場にしゃがみこませるようにした。どちらかと言うとクラスでも目立っている裕介が、普段おとなしめで目立たない柳田と、こそこそとベランダで話し合っている姿は、不自然じゃないかと思ったからだ。
「ちがう――」
 言おうか言うまいかと躊躇している柳田。
「……」
 裕介は柳田が口を開くのを黙って待っていた。
「服部先生……」
 柳田はちらっと裕介の顔を見た。
「服部?」
「……」
「くっ」
 奴かよ。
 他のクラスか、どっかの大学生とかだろうと思っていた裕介は、面食らったという感じがした。
「野郎、よりによって自分の生徒に――」
 嫉妬にも似た服部に対する嫌悪感が湧き上がってきた。しかしそれは、柳田かおりがどうのといったものではない。
「それでまさか、あいつと付き合ってんのかよ?」
 少しばかり興奮じみた裕介が聞いた。
「いや……」
 さっきよりもさらに下を向いた柳田がいた。犯されたことよりも言いたくないことが、まだあるみたいだった。
「あの……、誰にも言わない、かな?」
 これを聞いてしまったら、あなたにも少しばかり責任を共有してもらいます、というニュアンスを含んでいると思った。
「大丈夫、誰にも言わないから」
「じゃあ――」
 柳田は僅かに安心したような顔つきになった。
「私、大学を推薦してもらうことにしたの」
「いいじゃん、じゃ」
 裕介はそう言った。
「で、服部先生にお願いしたの、そしたら……」
 柳田の顔つきが少しばかり憎悪じみた断片を含んだ顔つきになった。
「……」
「ちっ」
 裕介は、おそらく自分の予想していることが、柳田の言わんとしていることだろうと思った。
「それで……、推薦してくれる代わりに――」
「わ、分かった」
 裕介はそれ以上聞きたくなかった。
 あの服部のやりそうなこった。大学推薦をエサにして自分のクラスの生徒を――。
 先日、大型百貨店で会ったときに、着ていた柳田の制服。それは服部の嗜好だったのだろうか、あの変態やろう。
 やりたい放題だぜ、くそっ。
「でも、服部先生には言わないで、お願い」
 懇願している柳田の顔があった。
「私、先生のこと嫌いじゃなかったし、それで希望の大学を推薦してもらえるんだったら構わないと思ったの、だから――」
「女の気持ちは分からない」
 裕介はムカついていた。服部に対してもそうであったが、ソノことを自分に相談しておいて、そのままにしておいてくれという柳田のいやらしさに対するものだ。
 なら俺に言うなよ。

 裕介の服部に対する憎悪を助長させるだけだった。ただし、一つだけ良かったことは、奴の弱みを握れたことだ。
 百歩譲って、この件に関しては黙っといてやろう、それが柳田の希望なのだから。しかし、おそらくこの件だけじゃないだろう、制服が趣味の先生なんていくらでもいるだろうし。だから教師を続けられる奴だって少なからずいるはずだ。そして、それが裕介の現在、最も憎んでいる奴がやっていることだとすると我慢できない。

 スカートの丈を短くした中学生らしき女の子ら。裕介の信号待ちの自転車のうしろで、ぺちゃくちゃと楽しそうにしゃべっている。女子高生と比べるとやはり若いんだなあという印象が強い。そりゃそうだろう、自分だって中学生のころに比べて身長にしろ顔つきにしろだいぶ変化してしまっている。ただ、その外見的な変化と比べると、内面的な変化、そして覚悟といったものは女の子の方が相対的には大きいんじゃないだろうか。

 あの柳田が……。
 教室ではまったくといっていいほど目立たない存在。大人しいけれども目立たなくしているというものではない、大人しくて目立とうとしても目立たないといった感じの生徒なのだ。だから、学校を休んだとしても、さほど気にならなかった。なんか体の調子でも悪いのか、それとも家庭の事情なのかといった程度にしか考えなかった。ある意味、裏切られただけに、かえって裕介の欲望をくすぶっていた。

 モヤモヤがたまる一方だ。
 しかしあの計算高そうな服部がそんなことを普通にスルだろうか? 第一、高校の教師とそこの生徒が、昼間っからそういった場所を確保すること、そしてそこに周りに気づかれずに行くことすら難しそうだが……。
 まあ柳田本人の言っていることだし、他に何かありそうでもない。これ以上考えないようにしよう、服部を脅すこと以外は。
 服部の野郎。

 裕介はいかに服部を貶めるかを考えていた。できることなら、どっかの教育委員会に通報してやってもいい。だがそれだとそれで終わってしまう可能性がある。俺の服部に対するこれまでの、つもり積もったものを自分自身でふるい落とさなければ気がすまない。
 間接的にやったのでは、奴の裕介に対する恐怖感は微量なもので終わってしまう。そしてそれが、裕介の弱さなのだと悟られてしまうことが嫌だった。自己満足かもしれないが、ケリをつけるときは相手に恐怖感をびっちりと焼付けとかないと完璧ではない。


3

 剣道場。
「乾、ちょっと……」
 部活の始まる前、早めに道場に来ていた乾を呼びつけた裕介。
「おまえ今日さ、部員全員で一時間ぐらいマラソンにでも行ってきてくんねーか?」
「えっええ、いいですけど……何か?」
 不思議なことを言ってきた裕介に対して、乾は心配そうに答えた。
「いいから、いいから。頼んだぞ」
 ほとんど脅しに近いような形で、乾の方を静かに睨みつけた。乾はいつもとは異なる、獲物を前にした獣のような目をした裕介に、何か異様な感じを受けた。それは何かやばいことを企んでいるとしか思えなかった。その覚悟じみた目つきは、わかりながらも同調させられるような、何か惹きつけられるものがあった。しばらくしてから、裕介の考えをなんとなく読み取ってしまった乾は、
「気をつけてください、奴……」
「うっせ」
 裕介は遮った。
 乾は着替えながら裕介の顔をじっと睨みつけていた。
「じゃ、一時間ぐらいしたら帰りますんで……」
 そう言うと、既に道場に来ていた部員のほうへと向かった。

 服部の来るであろう二十分前の時間。
「じゃ、行ってきます……」
 乾が、時代劇に出てきそうな振る舞いをしながら軽く一礼した。乾を除いた部員は裕介の顔を見ようとしなかった。関わりあいたくないという気配がありありだった。
「ああ」
 裕介は作り笑いをしながら彼らを見送った。
 さて……。
 裕介は左手に持っていた竹刀を右の手の平でなでた。正確には、ちゃんと竹がその場所に配置されているかどうか確認したのだ。最後に先端の覆っている先皮の部分を指先で覆いながら、前方の窓の向こうの樹木をぼんやりと眺めていた。
 ふう~。
 試合の前のソレとは異なる、何だろう別の感覚が体の神経をかなり敏感にさせている。それは不安や期待などといったものではない。もっと人間の奥底にある別の、自分自身では変えようのない生まれつきの本能というものなのだろうか。裕介はその今までに味わったことのないなんとも言えない感覚に身を任せていた。

「あれっ誰も来てないのか?」
 空っぽの道場を見渡す服部が、道場の入り口付近に立っていた。
「彼らちょっと持久力つけるとかでマラソンに行ってます」
「そうか」
 なーんだ、といった顔をしながら、道場内に入ってきた服部。
「おまえしかいないのか?」
「ええ」
「……」
「あの……服部先生、たまには手合わせ願えませんか?」
「おっ俺が? いーけど、何でまた?」
 裕介のめったにない提案に服部は驚いていた。
「そろそろ私もここを引退しますので、その記念にでもと思って」
「そうか……、別に構わんが、最近やっとらんから、手は抜いてくれよ」
「ええ、あくまで記念ということで……」
 服部のいつもの裕介に対する機嫌よりも良かった。裕介のほうから服部に歩み寄るということが、ほとんどなかったからだろう。

 カビ臭くなった胴着を取り出した服部。高校の教員になってから剣道を始めたらしく、うまいか下手は別として、今の裕介の技術には程遠いぐらいの腕前だった。
「そろそろ君も本格的な受験の準備をする気になったかね」
 着替えながら裕介に尋ねる服部がいた。
「そうですね。これできっぱりと受験に身が入ると思います」
 違う意味で言ったつもりだった。
「そーか、じゃ、英語がんばってくれよ、今からでも十分、間に合うからな」
 けっ、英語、英語ってそれしかねーのかよ。隠れて自分とこの生徒としけこんでる割には先生らしいことは堂々と言えるんだな、こいつ。
 会うたびに英語のことしか言い出さない服部に、耳にたこができるぐらいとも言うが、耳だけでは済まない圧迫感にも似た感覚で受け止めていた裕介だった。

「よしっ、久しぶりだから、最初に打ち込みからでいいかね?」
「ええ、いいですよ」
 二人は面と小手以外の防具をつけて、道場の中央のバッテン印のところまで来た。
「じゃあ、まず切り返しから……」
「うぉりぁ―」
 バシッ……。
 最後の練習からだいぶ経っていたようで、服部の動きは鈍い。普段は、乾や佐々木といった元気どころの高校生と練習している裕介にとって、中年おやじのほとんど素人ともいえる奴の切り返しなど、裕介の目には止まって見えた。
「ぜぇ、ぜぇ……」
「大丈夫ですか?」
「ああ、続けよう」
 服部は額に汗をかいていた。
「じゃあ」
「すぃっやー」
 静モードからいつでも動モードに切り替えられるように体を温めた。
 一瞬だ。
 その感覚的に分からないぐらいの刹那で決めてやる。
 相手が服部とはいえ、外さないとも限らない。
 その一度きりだ。

「じゃ次は、面打ちです」
 裕介は緊張した。外せないという緊迫感からか、それとも今からヤルことに対する不安からだろうか。ただ、それら緊張の要素となる感情とは裏腹に、服部と楽しむ裕介の感覚の方が勝っていた。
 卑怯だろうか、面うちの練習で『突く』ことは?
 いや、これは練習でもないし、試合でもない。
 罰、そして仕返しだ。
「じゃ、どうぞ」
 裕介は左側に少しばかりズレ、面の高さに竹刀を横に倒した。
 いくら相手が服部とはいえ、この体勢から奴の喉もとを突くことが出来るだろうか? 
奴が振りかぶると同時に、中段に構え直さなくてはならない、そして――。
 目と感覚的に慣れた連中ならば、おそらく簡単に避けられてしまう。ま、奴にも避けられたら避けられたで、適当に言い訳でもすればいい。最悪のところ、柳田との秘密を握っている裕介にとって怖いものはない。

「うぉりぁ―」
 服部が振りかぶり、その体勢が前方に傾いた。
 振りかぶる直前の息づかいの変化から、裕介の竹刀が一瞬にして引っ込み、さらに鋭い槍のような突きが、服部の喉仏を襲った。
 なるべく物理的に致命傷になるような角度で突いた。だがそれは、服部が裕介の瞬時の変化についてこれればという前提があった。それも即座にではなく、裕介が中段の構えになり終えたか、ぐらいのタイミングがベストだった。なぜなら、致命傷になるように喉仏を突くには、その真正面から突く必要がある。どうしても少しばかり斜めからの打突となるため、裕介のほうに服部の首を向けてもらう必要があったのだ。
 試合外用の技術は、裕介の得意とする分野だ。剣道とはいえスポーツである。技の形や残心といったことも必要なのだが、今の状況にはそれらはまったく必要ない。

 ずっぐぇぁ……。
 喉仏が破壊される音と、奴の悲鳴が少しだけ聞き取れた。
 白目を剥いた服部の口もとからベロンと舌が垂れている。道場のほぼ中央に、うつ伏せの形で倒れている服部。喉もとが変な形に変形しており、呼吸できない状況なのか、意識はなさそうなのに、瀕死の魚のように僅かに口元が動いている。

 さてとりあえず服部は気絶したかもしれない、いやもしかするとヤバイかもしれない。既に喉もとは、どす黒い赤に変色している。口元からもソノ色の液体が垂れており、唇の色はない。
 こうなる事を期待していたにもかかわらず、これからのことを考えていなかった。しばらくしたら、他の部員達が帰ってくるだろう。彼らはある程度のことはわかっていたかもしれないが、さすがにこれだけの事態とは予想していないだろう。

 奴をヤレた。
 その一点だけは譲れない満足感と、説明しようのない恍惚が残っていた。
 ただそれは、脱落した者のほんの悪あがきへの自惚れだった。


 しばらくして、服部は救急車で運ばれた。
 剣道場の外にはいつの間にか人溜まりができている。

 その中には、無表情に微笑んでいる柳田かおりがいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?