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Etude (25)「コロナ禍での平安のためにー美は人を救う」

[執筆日: 令和3年4月3日]

「幸福の存在を信じないということは、誰もが遅かれ早かれ身につける懐疑主義の一形態である。幸福に関して不平を言う者は沢山いるが、われわれがこの重要な概念を放棄するのは大方は諦めからであり、そうすることによって安堵するのである。(中略)一度も幸福だった経験のない人たちーあるいは、かつて幸福だったけれど、その幸福をもうすっかり忘れてしまって、そのことを当たり前と思っている人たちーは幸せである。なぜなら、こうした人たちは、涙を流すこともなく幸福を放棄するであろうから。筆者に関して言えば、メルロ・ポンティがある日サルトルに密かに打ち明けたとおりのことをここに述べておこう。「私は比類ない幼年時代から決して立ち直ることはないだろう」と」
   フェルナンド・サバテール「物語作家の技法」の「果てしなき遍歴」

 今年もというか、著名人の死亡のニュースが多いのですが、ノーベル賞受賞者、俳優さん、あるいは、キックボクシングで名を成せた人(沢村忠さん)などの死亡記事を見ながら、そうか、死んだ時も、世間の人の扱い方は違うものなんだなあと。そうとはいえ、吾々多くの無名な者は、近親者によって、静かにあの世に逝くけれども、著名人はなんだか大変そうだなあと、特に近親者は。先日、フランスの新聞で国際的に有名なフランスのバレーの名手が61歳でなっておりました。パトリック・デュポンPatrick Dupondですが、クラシック・バレエに親しんでいる方ならよくご存知のパリ・オペラ座で活躍し、その後舞台監督などを務めた方。フランス語では、hors normesと形容されていました、規格外のダンサーという意味でしょうか。日本で彼の死亡がニュースになったかどうか、記憶が定かではありませんが、人生100年というのは、どうも嘘くさい、そんな気がします。

 時々思うのですが、世の中には、大雑把に、世界を意識的に理解しようとする人と、世界を意識せず、無の境地で感じようとする人の2種類の人間がいるのではないかと。世界を理解しようとする人は、世界を知でもって、論理でもって、そして科学的に分析しようとする人で、一方、世界を感じようとする人は、知を働かせない、無心で目の前のものを感性に委ねて感じようとする人。前者は、ある意味で、目的志向があって、分析し、そして認識し、そこから何かを創造する、文明社会の進歩のためには不可欠な存在。後者は、何の目的意識もなく、自分の存在すら忘れて、目に見える対象に自己が没入するように、対象と一体化することで満足する存在。前者は、西欧的で、全てを分けて考える、自分と他者を別な存在として考える、後者は、東洋的で、自己と他者を分けることもなく、自己の存在は全ての存在の一部分であり、同時に全体でもあると考える。
 前者は、人生を分析し、解釈し、そして人生の意義を希求するが、自己と世界は永遠に対峙する関係であり、心の安らぎ、平安を得ることができない、後者は、人生を分析することも、また理解することも、そして生きる意義も希求することもなく、自己と世界は永遠の共存関係であることを感じ、心の安らぎを得て、平和に生きる、そんな風に思うのです。

 実際はこのように二分割すること自体が間違っているのですが、昨日から鈴木大拙の73歳の著書「禅の思想」を読み始めたせいか、そんなことを考え始めていました。かつて、西欧文明の没落を扱った書が多く見られた時期がありましたが、科学文明での進歩を最善のものと思ってきたけれども、同時に個々人に疎外感、不平等感が生まれ、なかなか幸福感や平安的な生活が得られないのは、この文明のあり方に間違いがあるのではないと考え、西欧で一時、東洋思想の禅が流行したことがあります。しかしながら、この禅、言葉では理解し難いもののようで、本を読んだから解る、体得できるものではないようです。まさに、本を読んだからといって、水泳や自転車に乗れるようになるわけではないことにとても似ています。
 かつて、語学の天才とも言われ、数十カ国の外国語をいとも容易く操る思想家の井筒俊彦は「対話と非対話」(岩波文庫「意識と本質」に収録されている、1977年テヘランでの国際会議シンポジウム「L’mpact planetaire de la pensee occidentale rend-il possible un dialogue reel entre les civilisations」で講演した Beyond Dialogue- A Zen Point of Viewの翻訳文)で、次のように述べています。

「禅は、言語の人間意識に対する影響力を徹底して否定的に見ることから始まる、言語の意味文節の枠組みを通して見られた世界は「現実」の完全な歪曲以外の何もでもない、禅は修行であり、精神鍛錬の道、人間の意識構造を根本的に練り直し、今まで隠れていた認識能力の扉を開き、それまで見えなかった物事の真相を摑むことができるもので、ありのままの「現実」を認識させる方法であり、座禅は、そうした言語否定への修行方法である、言語文節の蹤跡が消え去ると、あらゆる物事の無が体験され、「現実」が顕現する」

 禅は座禅で修行しないとわからない、まさにゴルフも練習しないと上達しないに通ずる全ての真理の真髄ですね(笑い)。

 禅のお話はまた後日お話するとして、中谷宇吉郎さんの「科学の方法」を読んで、科学では解決できない領域がまだまだ世界にはあることを知り、また、芸術的なもの、文化的なものが科学では分からないこと(再現性の可能性が低い)は、ある意味で欣快でした。彼の弟さんが研究していた茶碗の彎曲率の話は特に印象的な話しでありましたが、茶碗の良し悪しがどういうものであるかを私が語るよりも、目利きであった小林秀雄や北大路魯山人、あるいは、白洲正子、青山二郎、または「ささやかな日本発掘」(講談社文芸文庫)の著者、青柳瑞穂が語るべきなんでしょうが、この世界は、目利きであるとともに、手の触感がものを言うように思いますし、もしかしたら陶芸にはまったくの素人の私でも、案外掘り出し物を見つけることができるかもしれません(我が家には、濱田庄司やバーナード・リーチの作品、或いは古九谷のお茶碗等、色々な骨董品が所狭しに猫に小判のように、戸棚や押入れで寝ています)。
 
 さて、所謂日本の民藝の生みの親であった柳宗悦のことを、若松英輔さんは以前ご案内した「「利他」とは何か」の「美と奉仕と利他」で述べておりましたので、すこし徒然してみました。
 若松さんは、柳宗悦の民藝への姿勢や、美が生み出す力を利他的なものとしてとらえようとしている方ですが、民藝のあり方や美の共鳴性といった点に入る前に、先ず日本人にとって一番解りやすいとされる、仏教を「あえて一言で言えば、2つの利に収斂し、それは「自利」と「利他」である」と述べます。また、参考情報的に、最澄は他を利するには自己を忘れることが肝心であることを説き、一方、空海は自利を否定せずに、自利と利他を越えた真の利があることを暗示していると補足しています。仏教には不二という言葉があるようですが、それは一を意味しない、二つのものがお互いが抗しがたい「つながり」によって結びつく状態を指す言葉で、自他不二、自他無碍という言葉も同様ですが、決して一つになるものではない関係を意味します。
 民藝は宗悦の盟友である濱田庄司と河井寛次郎の存在もあって誕生したものでありますが、若松さんは、宗悦を芸術家というよりも思想家、詩人哲学者としてとらえ、宗悦は、この不二を自己の哲学の中核においたものであると述べます。それを示す宗悦の言葉を以下のように紹介しています。

「それは凡て現世での避け難い出来事なのである。仏の国でのことではないからのである。ここは二元の国である。二つの間の矛盾の中に彷徨うのがこの世の有様である。(中略)人間のこの世における一生は苦しみであり悲しみである。生死の二と自他の別とはその悲痛の最たるものである。だがこのままでよいのだろうか。それを超えることは出来ないものだろうか。二に在って一に達する道はないであろうか。」
                         「新編 美の法門」

 若松さんによれば、宗悦にとって、民藝は単に美しいものを眺める行為ではなく、「見る」行為を通じての哲学的営為であり、個々の心の内なる平和を実現しようとしたもので、民藝の真髄、それは工藝の美は奉仕の美であり、すべての美しさは奉仕の心から生まれるのものであることを以下の文章から導いています。

「されば地と隔る器はなく、人を離るる器はない。それも吾々に役立とうとこの世に生まれた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せる。また用に堪え得ずば、その意味はないだろう。そこには忠順な現世への奉仕がある。奉仕の心なき器は、器と呼ばるべきではない。用途なき世界に、工藝の世界はない。」
                            「工藝の道」
「大方の人は何かを通して眺めてしまう。いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。」
                  「茶道を想う」(柳宗悦茶道論集)
「どう見たか。じかに見たのである。「じかに」ということが他の見方とは違う。じかに物が眼に映えれば素晴らしいのである。」
                                同上

 なお、じかを漢字にすると、直になり、直に見るというのは、柳の言う「直観」になると、若松さんは解説しております。

 宗悦はまた、朝鮮との交流に意を尽くし人でもありましたが、それは、美こそが人間と人間の間にある氷を溶かして、争いを食い止め、心に平和をもたらすものであるという、彼の揺るぎない信条があったからでしょう。彼は、東京に日本民藝館を建てる12年前の1924年に京城の、かつての朝鮮の王宮があった景福宮に朝鮮民族美術館を設立しています(現在はその痕跡はないようですが)。以下の彼の言葉はその思いを物語っております。

「自分は此仕事を遂行する事によって、一つの新しい平和の家を争いの京城に建て得ると信じている。自分は啻に、長く保存すべき作品を、保存すると云う正当な所置に仕事を止めて深く朝鮮の心に入り、いつかは開くべき蕾を、未知の友の中に見出したいと希っている。芸術の理解がその民族を理解する最も根本的な未知だと云う兼々の信念と、芸術が国の差別を越えて、吾々を結合の喜びに導く力だと云う信念とを、具体化せねば止まない決心でいる」
               同人誌「白樺」の編集後記「朝鮮を想う」

 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年文禄・1597年慶長の役)で、朝鮮から連行された陶工によって、日本の焼物が発展した訳ですが、李参平が創始した日本の磁器は有田焼ですが、薩摩焼、萩焼も、皆朝鮮の陶工のお陰であります。美は国境を越える、世界の共通語でもある訳で、戦争を食い止め、平和をもたらすものでありましょう。科学文明はややもすれば、人類にとっての凶器にもなり得るものを作ってしまう危険性がありますが、芸術は、そうした反逆的なものにはならないと思いますし、そして、なによりも忘れてはならないのは、美を所有するという自我的欲望を持たずに、皆と共有する、人類の共有財産であると思うことであり、そうすることができれば、きっと利他がより深く理解できるのではないかと思います。日本は、そういう方向で、つまりは美をもって、国際社会に貢献できる国であると、私は信じています。
(なお、蛇足ですが、私が勤めていたパリ日本文化会館で「萩焼展」がありましたが、皆素晴らしい作品で、役得というのか、山口県の著名な陶芸家の作品を頂戴したのは、欣快でした。これは利他ではなく、棚からぼた餅でしょうが。)                                             (了)

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