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滋賀の山。比良山系・蓬莱山、展望の稜線をゆく#1

 そのバス停で下車したのは、ぼくひとりだけだった。

 どういう訳か、ぼくの選ぶコースはいつも人気がないらしい。もっとも、ひと気より獣の気配が濃厚な山がぼくの好みではある。静かに歩けるコースを、探し求めてはいるのだが。それにしたって日曜の、登山日和の好天の中、誰もいないバス停に降り立ったぼくはよぼどの物好きなのかもしれなかった。

 今回選んだのは滋賀県・比良山系の名峰、蓬莱山(1174.3m)だ。

 比良山系は琵琶湖の西にある、南北約25kmにわたる山塊だ。ちょうど比良山系の真ん中あたりに位置する最高峰・武奈ヶ岳(1214.2m)から、北を北比良、南を南比良という。蓬莱山は南比良を代表する山である。そこからさらに比良岳(1051m)、鳥谷山からとやま(1076.5m)と縦走し、翌日に武奈ヶ岳を踏んで帰る予定だ。

 蓬莱山へはJR湖西線の蓬莱駅や志賀駅から、また鯖街道(国道367号線)のだいらからなど、いくつか登山道がある。ぼくは平を通過しさらに北へと向かい、下坂下からのサカ谷道を選んだのであった。

葛川橋を渡ると鮮やかな森が広がっている。

 坂下の集落の、静かで心地よい緑の風景が心に染みた。

 街道沿いには新しい家屋にまじり、古民家も建ち並ぶ。肌をなでる風が冷たく、真夏日を記録する平地とは違い、ずいぶんと過ごしやすい。旧街道を安曇川沿いに南に進み、葛川橋を渡ると登山口だ。谷沿いを、堰堤を巻くように登ってゆく。ヤマビルが1匹、血を求めて地面でうごめいているのを見つけた。

 沢の流れが涼やかで、コケをまとった倒木が目に鮮やかである。川を渡り、尾根伝いに進むと、ブナを中心とした新緑がまぶしい。

 途中、登山道の右手と左手で人工林と自然林とがはっきり分かれていた。一方は林業の現場で、他方は自然の森。人工林が広がる山には野鳥のさえずりがまったく聞こえない森もあるが、ここは違う。ウグイスやシジュウカラ、アオゲラなどの鳴き声が、絶えず聞こえてきた。生態系のバロメーターである野鳥がいるということは、野鳥を支えるだけの緑がそこにあるということだ。腰を下ろして休憩していると、ぼくの頭上にアカゲラがやってきて、鋭く鳴き続けた。

サカ谷道の入口付近。この先、沢を渡渉する。
針葉樹林と広葉樹林がまじわる道をゆく。

 そろそろ出発しようか。

 そう思って立ち上がると、ふと足下が気になった。登山口でヤマビルを見つけていたからだ。念のためにチェックしておこう——と、ズボンの裾をまくり上げると、ぼくの足首で、ミミズをうんと短くしたような生き物が、血を吸って体をぷっくりと膨らませている。

 右足2匹、左足1匹。

「ひっ」と声にならない声が出そうになったところをぐっとこらえた。

 ソックスの生地のわずかな隙間から肌に食らいついているらしい。

 深呼吸を2回。

 虫除けスプレーを吹き付け、ポケットナイフでそっとはがした。「ふぅ」

 まれに感染症を媒介するとはいえ、ヤマビルはスズメバチやマダニと比べるとやられても被害は少ない。吸血されると血が止まりにくいことと、あとはとにかく、気持ち悪いのだ。ヤマビルが出没する地域ではきちんと対策を、これが今回の山旅での教訓になったのであった。

 谷から斜面を登り詰め、蓬莱山の稜線に出ると、風が強く吹き付けた。小ピークを越え、標高点964mを西から巻く。小女郎ヶ池に向かって稜線を進むと、シダの草原にツツジの木が1本だけある。ほのかなピンク色の花を咲かせていた。

 木々に覆われた登山道をゆくと、視界が突然、パッと開けた。目の前には池があり、奥には蓬莱山への草原が青々と続いてる。

 山は青空と緑に包まれていた。

 この自然のコントラストは、おそらくぼくがこれまでに出合った緑の風景でもっとも鮮やかなものだろう。風の音、カエルの鳴き声があたりに響く。池のほとりの、ブナの木陰にレジャーシートを広げ、のんびりと弁当を頬張った。

小女郎ヶ池は滋賀県でもっとも標高の高い池だ。奥に見える草原の丘が蓬莱山。

 小女郎峠に進むと風はますます強くなった。アウターウエアを着込み、目を守るためにサングラスを着用する。

 しかしどうだ、この眺めは。

 もし自由に空を飛ぶことができたなら、毎日こんな景色を眺めていられるのだろうか。鷹の目で俯瞰するかのように、琵琶湖や近江の街並を楽しむ。雲が、目線の高さにある。奥に続く山々の稜線が、はるか遠くまで続いていた。

 再び強風の稜線をゆく。

 振り返ると小女郎峠へと続く道が、どこまでも続いているように見える。視線の奥には比叡山。この、どこかアルペン的な雰囲気も、蓬莱山の魅力のひとつだろう。

小女郎峠あたりからの眺め。
蓬莱山の山頂付近から南を望む。
蓬莱山の三角点付近。一等三角点だけあり360度の大展望が広がる。

 蓬莱山の山上には「びわ湖バレー」がある。冬はスキー場、グリーンシーズンはアスレチックや散策などが楽しめる、山上リゾート施設である。

 リフトに沿って、草原を蓬莱山から打見山へと下ってゆく。相変わらず琵琶湖の景色は素晴らしい。大勢のカップルやファミリーでにぎわうのもうなずける。

 が、だんだんと自分が場違いのように思えてきた。汗を拭いながら大きなバックパックを背負って観光地を歩いているのだ。高級フレンチ店に短パンとサンダルで来てしまったかのように居心地が悪い。

 どうやらここは、自分の居場所ではないらしい。

 さっさと次の山へ向かおう。

 打見山の山名標識を写真に収め、木戸峠へと歩きだした。

「今から下りるのかい?」老ハイカーに声をかけられた。彼からしたら、敵陣の中で味方に巡り会えた気分だったに違いない。

「いえ、比良岳、鳥谷山と縦走して、金糞峠かなくそとおげで一泊します」

「ほう! 頑張って。では」

 時刻は14時。幕営地までコースタイムはまだたっぷり3時間はある。

 少々、急ぐか。

びわ湖バレーのテラス。
新緑が鮮やかだ。
木戸峠の手前に咲く花。これはなんという花だろうか。

旅のデータ

  • 標高:1173.9m(蓬莱山)

  • 距離:17.8km

  • コースタイム:10時間14分

  • コース:下坂下バス停→サカ谷道→小ピーク→小女郎ヶ池→小女郎峠→蓬莱山→打見山→木戸峠→比良岳→鳥谷山→荒川峠→南比良峠→金糞峠(1泊)→北比良峠→カモシカ台→大山口→イン谷口→比良駅

  • アクセス:行き・JR湖西線「堅田」駅より江若バス⇒「下坂下」下車|帰り・イン谷口からJR湖西線「比良駅」へ(土日のみ比良駅ーイン谷口若江バス有り。冬期運休)


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