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隠岐 #4|中ノ島海士町

 島前内航船「いそかぜ」が、海を飛ぶように走る。

 西ノ島別府港から中ノ島(海士町あまちょう)菱浦港に到着したのは、午後5時前のことだった。港から歩いてすぐ、まるで現代アートの美術館のようなホテルが目の前に現れた。

 Entô(遠島えんとう)。遠く離れた島、島流しを意味する言葉だ。隠岐は古くから遠流おんるの地でしたね。ここは結婚5周年の旅の、メインの目的地といってよい。ちょっと良いお宿に泊まって美味しい食事を食べて、ささやかなお祝いをしようというものだ。

 1971年開業の、国民宿舎「緑水園」がEntôの原点だ。94年に「マリンポートホテル海士」に改名し、そして2021年7月に生まれ変わった。

 館内には洗練された空間が広がっている。隠岐諸島の歴史を紹介するミュージアムや、図書館も備えられていた。図書館は海士町の「島まるごと図書館構想」の分館に位置づけられ、これは町中のいろいろな施設で本が読める、借りられる、素晴らしいプロジェクトだ。

 ぼくたちは新棟「Entô Annex NEST」に部屋をとった。

 そこには無駄なものが何ひとつない。

 テレビもない(ただしレンタル可)。

 削ぎ落とされた、しかしどこか懐かしく落ち着いた空間だ。NEST館は全室オーシャンビューで、部屋の壁一面にしつらえられた大きな窓から、島前諸島の絶景を望めるのだ。

 普段のぼくの旅の宿といえば、外と布1枚で——あるいは2枚で——仕切られたテントである。

 このギャップに少々戸惑ってしまったが、温泉をいただくと人心地ついた。日頃、頭の中をかき鳴らすノイズがいつの間にか消えてゆく。そうして図書館で本を借り、夕食までの時間、部屋で海を眺めながらのんびりと読書をして過ごした。

Entô Annex NEST館。
NEST館のパブリックスペース。部屋からも、ご覧のような島前の海が目の前に広がる。

 きちんとした、と言えばよいのか、「子羊のローストオーロラ風・香草のソースを添えて」みたいなのがメインに出てきそうな食事をするのは、ずいぶん久しぶりのことだった。4年前の、ぼくたちの結婚式以来のことかもしれない。

 しかし、式では何を食べたっけ。

 経験のある人ならお分かりだろうが、大勢で祝ってくれるのが楽しくてたのしくて、新郎新婦は食事どころではないのである。

 ダイニングの入口では外国人のスタッフが出迎えてくれた。前菜からデザートまでいろいろと案内してくれた。お名前をうかがっておけばよかった。確か、フィジーご出身だったような——。その方は畑も営まれていて、デザートのパンナコッタには畑で採れたてのはっさくが添えられていた。

 メイン料理は隠岐牛ロース。

 藻塩を少々付けて、ひと口いただく。

 五感がびっくりしている。

 歯がいらない。

 口の中ですーっと溶けて消えていった。

 普段の旅の食事といえば、登山用の小さな鍋にパックご飯とレトルト食品をぶちこんで炒めたまぜご飯である。

 このギャップをどう処理すればよいのか。どうしてくれるのか。

 もうひと口。

 ぼくが今まで食べてきたお肉は、もしかしたらゴムでできた偽物だったんじゃないかと疑念が浮かぶ。

 さらにもうひと口。

 いやきっと、ぼくが食べてきたのはゴムだったのだ。

「隠岐牛は他のブランド牛ほど知られていないネ。だから日本じゃあまり出回りません」

 どうです、美味しいでしょう? そうだろうそうだろうと、外国人のスタッフの方がにこやかに話してくれた。

「国内より海外に出荷されているのかなぁ。そうだ、この近くに隠岐牛の焼き肉を食べさせる店がありますヨ」

 そうか、あまり知られていないのはもったいない。そう思う反面、これは隠岐だけで食べられる名物として、そっとしておいたほうがいいんじゃないかと、なんだか複雑な心境だ。

 午後8時、レストランから望む山の向こうはまだほのかに明るくて、落ちゆく夕日に照らされていた。


 翌朝、チェックアウトを済ませて再び港へ向かった。最終日の今日、12時50分の帰りの船までたっぷりと時間がある。そこでレンタカーや自転車を借りて、もうひと観光する手もあった。

 でもやめた。

 ぼくたちには、目の前の海と島の景観があれば、それで十分だった。港にあるキンニャモニャセンター(キンニャモニャとは海士町の民謡のことです)でのんびりと過ごすことにした。

キンニャモニャセンターのウッドデッキと、奥がEntô Annex NEST館。
正式名称は「承久海道キンニャモニャセンター」。美しい建築は平成15年、第10回しまね景観賞を受賞した。

 センターのレストラン「船渡来流亭せんとらるてい」で昼食をとった。図書スペースに移動して、自分達宛の手紙を書こうと、土産の絵葉書に簡単なメッセージをしたためていた。きっと、記念になるだろう。港から徒歩5分の位置に郵便局がある。まだ12時過ぎだから、葉書を出しても船には十分間に合う。

 それにしても、隠岐の海の青さには惚れぼれしてしまう。

「海が青かったので、今朝は泳いできました」

「でも海水はまだ冷たかったです」

 ホテルのお姉さんがそう話していたのを思い出した。

 この海の印象を絵葉書にこめて、未来のぼくたちに託した。

 船渡来流亭のビールも程よくまわり、気持ちのよい夏の午後を過ごしたのだった。

 時刻はそろそろ12時30分を回ろうとしている。

 12時30分——。

 郵便局まで往復10分、手続きに3分。

 船は12時50分。これを逃すと一日一便の飛行機に間に合わない。

「急げ!」

 せっかく書いた絵葉書も、海士の消印がなければ意味がない。

 地図をたよりに郵便局へ走る。

 港を出るとき、ぼくらの乗るフェリーが着岸した。

「郵便お願いします」

 郵便局を出たのが12時39分。

 もと来た道を、また走る。

 港に留まるフェリーは自動車の乗船がすでに終わろうとしていた。

 キンニャモニャセンターの2階、フェリー乗船口へと階段を駆け上がる。

 12時43分。

 が、

〈ここからはフェリーに乗船できません〉

 階段を間違えた!

「出航5分前です。ご乗船の方はお急ぎください」

 アナウンスが流れる。

 階段を駆け上がる。

 チケットを片手に乗船口へ走る、走る、走る。

 12時47分。

 のんびりし過ぎた。だってあまりにも海が美しかったのだ。

 二等船室へ駆け込んだぼくたちは、まわりの人に息を切らしていることを悟られないよう、口を塞ぎながら鼻でふがふが息をして、必死に平静を装ったのだった。

 空港には、初日に感じた島の心地よい風が吹いていた。空の上には巨大な入道雲がもくもくと育っている。

 本格的な夏の訪れだ。

船渡来流亭の「寒シマメ丼」。シマメとはスルメイカのことで、冬にとれたスルメイカを漬けたもの。大盛りのご飯に卵とシマメをのせて、口の中にかきこむ。
菱浦港に流れる、穏やかな時間。
写真中央あたりに見えるのが「フェリーくにが」。このとき、写真を撮っている場合ではなかったのだが。

Entô

  • 住所:〒684-0404 島根県隠岐郡海士町福井1375-1

  • 電話:08514-2-1000

キンニャモニャセンター

  • 住所:隠岐郡海士町菱浦

  • お問合せ:海士町観光協会(電話:08514-2-0101)


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