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隠岐 #1|夕日の沈む先

 港町はゆっくりと、夕暮れの光に包まれてゆく。

 いつも山ばかり歩いているぼくにとって、海面に降り注ぐ温かな光と、港に漂う潮の香りはとても新鮮だ。波の音色にまじる、時々行き交う車やバイクのエンジン音、それに船の汽笛の他には、何もない。静かなものだ。

 八尾川沿いの、しお待ち通りにそって漁船がいくつも並んでいる。漁船の甲板には屋台の骨組みのようなフレームがあり、そこに大きな裸の電球がいくつか備えられている。湾内の穏やかな波のリズムに合わせて、電球も揺られていた。フィラメントを覆うまぁるいガラスがどこか風鈴のように思えてきて、眺めていると、涼しげな音色が潮風に乗ってぼくたちに届いてくるかのようだった。

 今、隠岐の島を訪れている。

 休暇をとって、結婚5周年のささやかな旅に出たのだ。隠岐の島町港町、西郷港に今夜の宿をとった。港から天神橋を渡り、汐待ち通りをゆくとホテルはすぐだった。


 本館でチェックインを済ませ、離れの部屋に荷物を置く。お風呂をいただき、ホテルの10階へと夕食に向かった。

 そこは開放的な窓が壁一面に備えられ、まるで展望フロアのようだった。4人がけのテーブルがずらりと並び、幾人かの先客が浴衣姿で食事を楽しんでいる。

 ぼくたちも席に着く。隠岐近海で獲れた魚介類を中心とした、会席料理が用意されていた。鯛や地鰺、白身魚のお造りに、山陰ポークのせいろ蒸し、桜鯛の揚げ物に海鮮の炊き込みと、隠岐の恵みをふんだんに取り入れた食事だ。窓外には西郷港の湾の入口が見え、日の入りが迫る中、フェリーや漁船がゆっくりと行き交う。

 瓶ビールを頼み、刺身を肴にほろ酔いになると、少しずつ日が落ち辺りが暗くなり始めた。窓から眺める漁港の上空に、おこぼれにありつけるのだろうか、たくさんのトビが舞っている。そのうちの一羽が、窓のほんのすぐそばを、手を伸ばしたら届きそうな位置を滑空していった。間近で見るトビはとても大きかった。


「夕日がきれいですよ!」

 不意に、ホテルのスタッフの女性が、ぼくたちの席に溢れんばかりの笑顔で飛んできた。

 20代前半、いや、もしかしたらまだ10代かもしれない。髪色の明るくて、仲居服のよく似合う小柄な女の子が目を輝かせている。もうこらえきれなくて、居ても立ってもいられず、誰かに伝えずにはいられない感動をぼくたちに共有してくれたのだ。

「夕日を眺めることなんて、普段ありませんよね」

 彼女は東京から働きに来ているという。

 食事中だったが、箸を置き席を立ち、窓から西の空を眺めてみた。港町は茜色に染まり、八尾川の遙か奥、名も無き山の合間に太陽が沈みつつあった。

「ここへ来るまで、夕日はビルの合間に沈むものだと思っていました」


 ぼくは兵庫県小野市の田舎町に生まれ育った。学校が終わると近所の神社に集合して夕暮れまで遊んだ。広い境内は子供の遊び場に最適だったのだ。そこに時計はない。腕時計もない。時間も忘れて夢中で遊んだ。辺りが遊ぶのに支障が出るぐらい暗くなることが帰る合図だった。

 神社の周辺にビルなどない。どこまでも田畑が広がっていて、遠くにローカル線の列車が時々思い出したように走ってゆく。家に帰る道すがら、交差点から、夕日が里山に沈んでゆく姿を何度眺めたことだろう。境内には立派なえのきがそびえていて、夕日に照らされシルエットになった榎と列車の景観を、ぼくは生涯忘れない。あれから30年がたったが、今もこの風景は昔のままだ。

 彼女の言葉に、ぼくは軽いショックを受けた——いや、なにか不思議な感覚を覚えた。ぼくにとっては郷愁を誘う夕焼けも、彼女にとっては新鮮で驚きをもって迎え入れる風景だったのだ。同じ時代を生きる同じ人間なのに、世界をまったく違った目で感じ経験し、まったく異なる人生を歩む人が、目の前にいる。そうして何かの縁でぼくたちと会話をしている——。

 考えてみれば当たり前のことなのだけれど、この年齢になって、自分とは異なる感性の持ち主がいることにぼくは初めて気がついたのかもしれない。同時に、夕日の美しさに感動できる彼女の純粋な精神に、ぼくはひどく心を打たれたのだった。


「この〈あかもくの赤だし〉、何か燻製の香りがするんですけど」

 席について赤だしをすすると、ぼくの嗅覚は何やら燻製のような香ばしい香りを捉えていた。たまに自家製の燻製をこしらえるぼくは、半ば確信をもって彼女に尋ねてみたのだ。きっとあかもくは、いぶしてから使っているのだろうと。

「いえ、燻製は使ってませんよ。出汁の香りかなぁ」

 ぼくの食に関する感性はさておき、暮れなずむ港を眺めながら新鮮な魚貝をいただいて、幸せな時間を過ごしたのだった。

 食事を終え、再び汐待ち通りを離れへと向かうころには、日が沈み、港の灯台に明かりが灯り始めていた。

 灯台のほのかな光に、波に揺られる船の電球が、美しく照らされていた。

フェリーから望む、隠岐の島町・西郷港。
隠岐プラザホテル。
隠岐プラザホテルの離れにあたる「Hito_Naka(ヒトナカ)」。お洒落なゲストハウスだ。
お造りの盛り合わせ四種。

隠岐プラザホテル

  • 住所:島根県隠岐郡隠岐の島町港町11-1

  • 電話:08512-2-0111

  • 公式サイト:https://okiplaza.com

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