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教えないことと自己責任論

 先日、進路検討会が行われた。
 どこの学校でもやっているわけではないと思うので少し説明をすると、担任と進路指導の教員とその他で、各生徒の現在の状況と志望進路の確認、それに対しての助言や、実現に向けての戦略を皆で検討するものである。

 この場においてもやはり前回触れたような気持ち悪さの影響が見て取れる。学習指導要領の改訂や世の中的な流れもあり、授業は上から下に「教える」のではなく「教師と生徒が“学習者”として対等に語り合うもの」というような言説が影響力を持ってきている。

 前回も書いたけども、無理やり「詰め込む」ことを慎むことは構わない。ところが最近は「詰め込み」が悪というより「教える」が悪のようなすり替わりが一部で起きているように感じる。

 「偏差値20~30台の生徒が神戸大学を志望している。浪人も覚悟していると言っているのですが、どうしたらよいですか。しかも文系クラスなんですが、理工学部に行きたいと言っています。」

 それに対する意見として
 「本人がそこまで決意してるならいんじゃない」
 「本人が選択したことだから尊重しよう」
 なんて意見が普通に出てくる。

 3年生のこの時期になって、現実とファンタジーの区別もつかないことが問題視されない。
 
 その手の生徒は毎年必ず数名いる。希望だけは高いが能力も努力も工夫も見合っていない。その事と正面から向き合えない。だから、「浪人」という形でモラトリアムを続ける。

 浪人すること自体は構わないが、この手の生徒が浪人して志望校に合格したという話は聞いたためしがない。翌年、翌々年と調査書の発行に来て、相変わらず志望校を変えず、成績も伸びていない。そんな事例しか見たことない。

 今更その生徒に何を言っても志望校は変えないだろう。要はすでに思考が閉じてしまっているのである。教師の仕事はそんなマインドに陥らないようにすることだと私は思う。

 その意味でこれは教育の失敗なのだ。反省すべきだと思うし、担任をはじめ、教師は責任を感じる必要がある。

 しかし、このような事例においても「教師と生徒が“学習者”として対等に語り合うもの」理論が幅を利かせ始めている。
 「本人が決めたことだから」と言ってしまえば責任は問われない。その結果、数年間浪人を続けて、そのまま引き籠りになったとしても「本人が決めたこと」だし、「自己責任」ということになるのだろう。

 確かにこの辺りの判断は難しい。「お前には無理だからやめとけ」と教師に言われた生徒が合格することもあるし、スポーツ選手や芸能人において「周りの反対を押し切って」的な話は定番でもある。

 つまり、「教える」というのは「可能性を摘む」と紙一重であることは間違いない。当然ながら教師が「教えた」ことが正しいとは限らないのだから。

 だから我々は「教える」ことに対して細心の注意を払う。経験とエビデンスに基づき、相談し、アドバイスをかき集め、調べられる限り調べて、恨まれても仕方ないと思えるところまで努力してから「教える」。それが教師にとっての「責任」ではないかと私は思う。

 昔からよく「生徒の成功は生徒の努力の結果、生徒の失敗は教師の責任」みたいなことを先輩教員から言われたが、最近になって改めてそうだなと感じる。

 教師も人間なので、責任から逃げたくなるのはわかる。しかし、「逃げた」という認識があればよいが、昨今の風潮だと「逃げた」を「主体性を尊重した」に正当化し、ダメなことをしたという認識がないままキャリアを重ねていく教師が増えていくだろう。

 その先に待っているのは自己責任論による「格差の助長」だ。下手をすると「格差の肯定」にすらなりうる。

 メディアはいつもながら本当に無責任にこうした風潮を助長する。教育において「失敗」のツケは遅れてやってくる。何十年も経ってから「失敗」だったことが表面化する。そして、物事は大半がそうだが、表面化した段階ではもう手遅れなのである。

 だから、為政者や経営者には先を読む力が絶対的に求められる。現場には理解できない次元で考察する能力が必須である。それは時として孤独となりうる。普通の人には理解できない世界を観ているのだから、それは仕方がない。民主主義の矛盾はここにある。

 これを克服するにはエリート主義でいくか、一人一人が質を高めていくしかない。微力ながら、後者の一助になれればと教壇に向かうしか自分にできることはないが、為政者や経営者、文部科学省にももう少し頑張ってもらわないと、さすがにしんどい。

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