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私たちは想像以上に「生い立ち」に囚われている(後編)

6年前、2017年のゴールデンウィーク直前、突然の退去勧告だった。
それは当社のペレットストーブ事業の仕入先であり、拠点としていたショールームのオーナーからの勧告で、とても感情的なものだった。5年間かけてつくってきた事業体制が、崩れた。

オーナーは、国内でいち早くペレットストーブに商機を見出し、本場ヨーロッパのペレットストーブの輸入販売を始めたパイオニアの一人。私が2011年の県議会議員選挙の落選後に失業して、生活のために夫婦で起業しようとしていたときに、「そのペレットストーブを売らせてください」と頼りにした、言わば恩人だ。
ペレットストーブは、地域の森林資源を燃料にして、住宅や職場を暖める。つまり、電気・灯油・ガスを燃料にする他のストーブよりも、CO2を吸って成長した森林資源を燃料にするストーブの方が、計算上CO2の排出が少ない(カーボンニュートラル)とされ、環境への負荷が少ない。また、なんと言っても森林という地域資源を使ったビジネスであることが、私にとって魅力的だった。なぜなら、山梨ワインという地域資源を武器に地域活性化をめざす「ワインツーリズム運動」から去った私は、次なる武器をさがしていたからだ。
一方、オーナーも夫婦で事業をしていて、輸入業と国内販売を始めたとはいえ、肝心なショールームの運営まではできていなかった。また、輸入したペレットストーブを全国に売ろうとしていたが、そのためのマンパワーもなかった。
そこで、私がペレットストーブの販売を始めて一年足らずのうちに、「営業部門」つまりショールームの運営と全国への販売は当社が、「技術部門」つまりペレットストーブ輸入会社として品質管理やアフターサービス業をオーナーの会社が、という体制ができあがった。これにより、前述のショールームを当社が月額3万円で借りることになり、一つ屋根の下に二つの会社というか二つの夫婦の協力体制が5年間続いていた。

突然の退去勧告は、いま思うと突然ではなく、時間の問題だった。
勧告の理由は、オーナーの資金繰りが難しくなり、ペレットストーブの輸入ができなくなったということ。そして、ショールームは売却するから一刻も早く出ていって欲しいと言い渡され、それもこれも笹本が真面目にペレットストーブを売らなかったからだと非難された。もちろん、共に協力関係にあったとは言え、あくまでも別会社として役割分担していたわけだから、自社の資金繰りを他社のせいにするのは筋が違うと思った。
しかし、これは両社の共依存関係の結果だったと、いまでは思っている。特に私の悪い依存癖が出てしまった。商品の輸入は全てオーナーにお任せで、私はそれを仕入れて売るだけ。つまり、リスクは全てお任せで、私は売っただけリターンを得る。こんな関係を5年も続けてしまった。申し訳なかったです。

これも私の生い立ちから来る癖なんです。
私はその時々で、人一倍努力してきて、それなりに成果を出してきたという自負はある。しかし、いまにして思うのは、それは全て誰かへの依存の上に成り立っていた、ということ。留学も経済的に親への依存、就職も親のコネ、帰郷してからも家業に依存し、ワインツーリズムに没頭できたのも家業があったからで、拠点とした大木さんのカフェに寄りかかっていた。選挙だって全く同じで、無自覚に家業以外の企業や団体へと依存関係を広めていったんだと思う。それでも私が選挙で訴えたのは「地域の自立」だった。まさに言ってることとやってることが正反対。私の選挙は、こんな矛盾に心の中では気付きながら、それでも前を向いて闘っていた、というのが実態だった。選挙の後、次期の不出馬表明をしたのは、この矛盾の延長線上には未来がないと思ったからで、「今度こそは自立するぞ」と決意してやったはずのペレットストーブ事業でも、やっぱり依存の上に立ってしまった。全くひどいもんだ。

さて、オーナーとはその後、話し合いを繰り返し、互いの貸し借りも精算して、別々の事業に進んだ。私の会社ではペレットストーブ事業を継続することとし、そのための店舗をさがして、現在のstudio pelletをつくった。ただこのとき、覚悟したことが一つあった。
商売の範囲を「この人口80万の小さな山梨県に限定する」ということだ。

それまでの5年間は、オーナーが輸入したペレットストーブを、全国を相手に販売する努力を私はしてきた。それがオーナーの希望だったし、山梨県内の多くの先輩経営者がめざす「山梨から全国展開」という経営の理想だった。小さな市場で商売をすることの限界を自覚した山梨県内の経営者たちは、県外との取引が多いことが、山梨県内の企業の良し悪しを決める、と思い込んでいた。金融機関が融資の際に地元企業の評価をする際だって、市場の小さな山梨県内だけで商売する企業よりも、県外から「外貨獲得」してくる割合が多い企業ほど、安定していると高評価をつけるだろう。だから、いつも観光業がもてはやされる。だから、いつも特産品のメーカーが優遇される。小さな山梨県にいながら、全国を、世界を、相手に商売していると思われているからだ。
しかし、当社がこれからペレットストーブ事業を再スタートする際には、もうオーナーはいないから、自分でどこからかペレットストーブを仕入れてくるしかない。また夫婦だけの会社に戻ってしまったから、県外に営業する余裕なんてない。目の届く範囲に販売して、何かあったらいつでも行って対処できるエリアだけで、商売してみよう。

ある日、何気なくそう考えていたとき、私はいままで味わったことのない恐怖心に襲われた。荒野に一人、素足のまま立っている感覚がして、手が震え、動悸がした。それと同時に、なぜ自分がこんなことになっているのか、驚いた。

オーナーと共に全国展開を目論んでいた頃、決して順調だったわけではなかったが、それでも全国の市場を相手にしている、ということが私の心の安定の源だったわけだ。その源がなくなった瞬間に、動揺したわけだ。
そして気付いた。今まで「地域で生きる覚悟」とか「地方の価値観」とか「地域の豊かさ」とか散々言いながら、本音では県内市場を全く信頼していなかったのだ。これでは父の「山梨の田舎者にはおれのやってることの価値は分からん」という価値観そのものではないか。そして私は、県外に出張することを喜びとし、山梨県内の市場だけで商売をする店や企業を見下していた。人とはここまで強烈に、生い立ちに囚われてしまうものなのか。

じゃあこの市場で覚悟を決めて、山梨県という市場を信じて、誰にも依存せずに会社を成り立たせるんだ。毎日店に自ら立って、山梨県民の一人一人と対峙して、信頼して、信頼されて、一人一人にモノを売って、そこでつながる。それが自らの生い立ちを乗り越えて、親からの価値観を塗り替えて、本当に地域で自立するということなんじゃないか。その先に「地域の自立」が見えてくるはずだ。
こう自分に言い聞かせて、2017年10月、studio pelletが始まった。

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