自分探しの旅で見つかる「自分」とは誰か
最近、「自分探しの旅」という言葉をよく見聞きするようになった。意識して自ら旅経つ人もいるが、意図せず飛び出し、振り返ってみたらそうだったという人もいる。
ひらやまさんも、その一人である。
*
ひらやまさんのnote「自分探しの旅に出たら、自分と世界の捉え方が変わった話。」の感想note。
自分が分からなくなる時は、「ただ、いる」が許されないと感じた時
ひらやまさんのnoteは、こんな書き出しだ。
2018年1月から4月、ふらふらと海外を放浪したときがあった。今振り返れば「自分探しの旅」という名前をつけられるけれど、当時はただただ、必死だった。
ひらやまさんのnoteより
ただただ必死に、ひらやまさんは何を求めていたのだろう。何を探していたのだろう。何から逃げていたのだろう。何を望み、何を恐れ、何を喜び、何を嫌っていたんだろう。
ひらやまさんは、「何者かに、なりたかった」と語る。
旅に出る前の自分は、自分のことが嫌いで、とにもかくにも、変わりたかった。
ひらやまさんのnoteより
自分を嫌う、というのは怖いことだ。
他者のことを嫌いになっても、距離を取ったり、連絡を絶ったりすればいいが、自分ではそうはいかない。最も嫌いな人が、四六時中傍にいる。目の前にいる。目を閉じても、耳をふさいでも、その存在は消えない。
「嫌い」という醜い感情が全身を包み込む。自分の汚い部分や弱い部分が曝け出されて、何もかも信じられなくなる。
心身が疲弊して、他の人すべてが自分を嫌っているのではと思えてくる。もっとも、誰かが好いてくれたその好意すら、受け入れられないのだけど。
ぐらぐらと揺らぐ足場を必死に飛び越えていっても、いつかは躓いてしまう。
ひらやまさんも、そうして燃え尽きた時があったそうだ。
===
「自分探しの旅に出る」と思った時、あるいは、知らず知らずのうちにでも自分探しの旅に出ていた時、人は、自分のことが分からなくなっている。
分からないから、突き止めるために、知るために、見つけるたびに、旅に出る。
そして、自分が分からなくなるとは、「ただ、いる」が許されないと感じた時だ。
誰かの期待に応え続けて、主体を失ってしまった自分にとって、「ただ、いる」という姿勢は魅力的に見えた。
ひらやまさんのnoteより
誰かに期待されたり、褒められたり、認められたりするのは嬉しい。嬉しいから、もっと頑張ろうと思う。でも、それが主軸になってしまうと、途端に苦しくなる。
その苦しさの先には、どうしようもない「許されなさ」が待っている。
働かないなんて許されない。
休むなんて許されない。
愚痴るなんて許されない。
工夫しないなんて許されない。
ただいる、なんて許されない。
そういう時、人は、知ってか知らずか、自分探しの旅に出るのだと思う。
自分探しをして見つけたい「自分」は誰なのか
自分探しの旅に出て、明確な「自分」を見つけて帰ってくる人は少ない。
中には、大きな使命感を得たり、望んでいたものに出合えたり、人生を変えるような出来事がある人もいるのかもしれないが、多くはない。
大抵の人は、探し求めていた「自分」は見つからずに帰ってくる。でも、大抵の人は、晴れやかな表情をして帰ってくる。
自分探しの旅に出て見つけたい「自分」とは、誰だろうか。
きっと、今持っている余計な荷物をすべておろした、「ありのままのわたし」なんだと思う。
体裁とか、世間体とか、見栄とか、立場とか、キャラとか、イメージとか、レッテルとか、そういうものをすべて外す。いるのは、自分ひとりだけ。
許されないとか許すとかとはもう別次元の、「あなたは今、どうしたい?」というシンプルな問いがそこにあるだけだ。
ひらやまさんは、「答えは見つからなかった」としつつも、「海外一人旅は、自分の人生の解像度を上げてくれた」と語っている。
行き先を決めるのは、自分。
帰る日を決めるのも、自分。
邪魔するものは、一切ない。
自分を知っている人は、誰もいない。
自分が知っている物も、ほとんどない。
ひらやまさんのnoteより
自分探しの旅とは、何か新しいものを見つける旅ではなく、長い人生の中で背負いこんできた荷物たちをおろすための旅なのかもしれない。
日々の中で、自分探しの旅をする
心身が疲れ切って緊急事態になった時、人の心は自然と、「誰も自分を知らない環境」を求めるのだろう。そして身体も、その場所に向かって動き始める。
新しい環境に行けば、何があるか分からないし、毎日毎分新しい発見があるだろうし、間違うことだってたくさんあるはず。特に海外なら、その国の文化や歴史もあるし、日本と勝手が違うこともあるだろう。
どこかで当たり前のことが、どこかでは非常識だったりする。どこかでは特別な出来事なのに、どこかでは日常茶飯事だったりする。
そういう出合いは、ひとつひとつが尊いものだ。
旅という非日常の世界に置いてけぼりにせず、ぜひ日常へと持って帰ってきてほしい。
===
でも本当は、そんな「ピンチ」に陥る前に何かできないのかな、と考えている。
ある日思い立って、「自分探しの旅をしてくる!」とポジティブに旅立つ背中は後押ししたい。けれど、追い詰められて、それでも頑張り続けてしまう人がいるなら、その背中にブランケットをかけたいと思う。
何もしなくても自分は自分で、
何をしていても自分は自分で、
どんな自分も、自分でしかない。
ひらやまさんのnoteより
ひらやまさんが言うように、どんな自分も、自分でしかない。
自分探しの旅に出る前の自分は、他者なわけではなく、紛れもない自分自身だ。ただ、余計な荷物をいろいろ背負い込んでいるだけの。
なら、その荷物をそっとおろすことはできないだろうか。
日々を、自分探しの旅とすることはできないだろうか。
日常を守るためにしなくてはいけないことなんて、きっとずっと少ないから。
「ただ、いる」を許したい
自分にも他者にも、「ただ、いる」を許したい。
ただ、ある、ということは、
何もしないということであり、
何かしているということであり、
そのどちらでもあるということ。
ひらやまさんのnoteより
何をしてもいい。
何をしなくてもいい。
だってあなたは、あなたなんだから。
偉いから、すごいから、すてきだから、かわいいから、賢いから認められるのではなく、ただいるだけで、十分すぎるくらい尊い存在なんだから。
===
takaren advent note 52日目
cotree advent note のnoteをひとつずつシェアしつつ、感想や学びや変化などを綴っている。
ひらやまさんのnoteはどれもすてきなので、ぜひ。
感想、コメント、リクエストなどいただけたら嬉しいです。「たかれんのこんな記事読みたい!」があったらDMにどうぞ!