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バビロン

アカデミー賞では映画などのエンタメ業界や新聞などのマスコミ業界のいわゆるクリエイティブ職を描いた作品が評価されやすい。
作品賞のノミネート枠が拡大された2009年度以降に限定しても以下の作品が作品賞を受賞している。※()内は描かれた業界

11年度「アーティスト」(映画)
12年度「アルゴ」(映画)
14年度「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(演劇・映画)
15年度「スポットライト 世紀のスクープ」(新聞)
18年度「グリーンブック」(音楽)
21年度「コーダ あいのうた」(音楽)

17年度の作品賞受賞作「シェイプ・オブ・ウォーター」も主人公が映画館の上に住んでいるから広義ではエンタメものに含めていいのかも知れない。

そう考えると、過去13回のアカデミー賞のうち過半数の7回がクリエイティブ職関連作品が作品賞を受賞したことになる。

しかも、この間には「ヒューゴの不思議な発明」や「ラ・ラ・ランド」、「ボヘミアン・ラプソディ」などの作品も作品賞にノミネートされている。

2022年度を対象にした今回の第95回アカデミー賞だって作品賞にはスティーヴン・スピルバーグ監督の自伝的作品「フェイブルマンズ」やエルヴィス・プレスリーの伝記映画「エルヴィス」、女性指揮者の話「TAR/ター」、2人のモデルを描いた「逆転のトライアングル」がノミネートされている。

作品・監督・主演女優・助演男優・オリジナル脚本・作曲・美術の7部門で候補にあがった「フェイブルマンズ」と同じく映画業界を描いた作品としては、作品賞候補にはなってはいないが、「エンパイア・オブ・ライト」が撮影賞にノミネートされているほか、本作「バビロン」が衣装・作曲・美術の3部門で候補となっている。

何故、クリエイティブ職ものはアカデミー賞で評価されやすいのか。その理由は明白だ。
アカデミー賞は批評家やマスコミ、ファンなどか決める他の映画賞とは異なり、受賞作を決めるのは同業者、つまり映画人だ。
だから、自分たちが直接的あるいは間接的に知っている業界についての話なら、そのストーリー展開や台詞などにリアリティがあるかなど作品の良し悪しを容易に判断できるクリエイティブ職ものを評価してしまうというわけだ。

日本の朝ドラ(朝の連続テレビ小説)に毎回のように主要キャラにクリエイティブ職のキャラクターが出てくるのも同じような理由なんだと思う。朝ドラは主人公が様々な土地に移動し、多くの人物と接するという展開のものが多いから、全てのキャラクター設定をイチから作るのは難しい。特にモデルとなった人物がいない作品だと。だから、脚本家や演出家がイメージしやすいクリエイティブ職のキャラを出してしまうのだと思う。

ちなみにコロナ禍になってからスタートした朝ドラに限定してもこんな感じだ。

「エール」
作曲家(主人公)、声楽家(ヒロイン)、新聞記者(親友)
「おちょやん」
女優(主人公・ヒロイン)、役者(夫)、芝居茶屋の娘(親友)
「おかえりモネ」
気象キャスター(主人公・ヒロイン)
「カムカムエヴリバディ」
キャスティングディレクター(初代主人公・ヒロイン)、ジャズミュージシャン(2代目主人公・ヒロインの夫)、映画村職員(3代目主人公・ヒロイン)、大部屋俳優(3代目主人公・ヒロインの恋人)
「ちむどんどん」
新聞記者(主人公・ヒロインの夫)
「舞いあがれ!」
ブロガー(主人公・ヒロイン)、詩人(主人公・ヒロインの恋人、予告を見た感じだと夫になるのかな?)、 メディア露出の多い投資家(主人公・ヒロインの兄)

何と、コロナ禍になってからの全作品の主要キャラにクリエイティブ職に就いているor就いていた者がいることになる。特に「モネ」以降の4作品はモデルとなった人物がいないオリジナル作品だから、手抜きのキャラ造形と言われても仕方ないよねと思う。

話を本作「バビロン」に戻そう。

メガホンをとったデイミアン・チャゼル監督作品には朝ドラのようにクリエイティブ職のキャラを描いたものが多い。
彼を一躍有名にした「セッション」はジャズ・ドラマーの話だし、「ラ・ラ・ランド」はピアニストと女優の話だ。
そして、本作は映画がサイレントからトーキーに移行する時代の映画業界を描いた作品だ。
要は、「雨に唄えば」や「アーティスト」と同じだ。「ダウントン・アビー」の劇場版第2弾もそうした系統の作品だった。

そんないかにも賞レース向きの内容なので、デイミアン・チャゼル監督作品として見ても、映画業界ものとして見ても作品賞にノミネートされなかったのは何故という気もする。
後者に関しては先述したようにクリエイティブ職映画の作品賞候補が多いから弾かれたのかも知れないが。

まぁ、大雑把なストーリー展開は先述した「雨に唄えば」などの作品と同様なので特に目新しいものはない。基本はこれらの作品と同じく映画がトーキーになって声質が悪いなどの理由で人気が落ちてしまった俳優や音声を同時に録音する現場に慣れないスタッフの話だ。

また、3時間9分もある上映時間(KINENOTE準拠)はさすがに長すぎると感じてしまった。歌やダンスのシーンはもう少し短くできたし、音声収録でNGを重ねるシーンはあそこまで何回も繰り返す必要はなかったと思う。それに、ラストの回想シーンや映画誕生から現在に至るまでの様々な映画の名場面のコラージュももっとスッキリ編集できたのではないかという気もする。

というか、そのラストは映画界を去った主人公がふと映画館に入り過去を振り返るという設定だから、嫌でもチャゼル監督の代表作「ラ・ラ・ランド」のラストで主人公が「もしもの世界を夢想する」という構成の焼き直しにも思えてしまい新鮮味に欠ける。
あと、指摘している人も多いけれどタランティーノ風なところもあるよね。虚実織り交ぜたハリウッドの内幕ものというのはタランティーノ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」と同じだしね。

それから、本作が映画業界を描いた作品なのに賞レースで苦戦しているのもそりゃそうだろうねと思った。下ネタと差別的表現が多いからね。
前者に関しては性的なものと排泄物の両方が出てくる。後者に関しては舞台となっている時代を考えれば何もおかしくはないんだけれど、ユダヤ人やメキシコ人、黒人、アジア人、女性、同性愛者に対する差別的な台詞も頻繁に登場する。現在のハリウッドでは歴史的事実を改竄してでもマイノリティが活躍する展開にしなくてはいけない風潮があるから、本作のように当時の風俗を忠実に表現した作品の受けは良くないだろうなとは思った。

ところで、“権利の関係で字幕を出せない”みたいなお断りが本編前に出ていたがアレは何?

英語以外の台詞で字幕が出ていないところがあったけれど、アレはおそらく、最近のハリウッド映画でよく使われる演出だと思う。これまではオリジナルの映像に英語以外の言語による台詞の英語翻訳字幕がない場合は日本側で独自に日本語字幕をつけるケースが多かったが、最近は本国からつけるなと指示されることが多い。
スピルバーグ監督の「ウエスト・サイド・ストーリー」もそうだったが、英語以外の言語の台詞が何を言っているか分からず不安になるのは非英語圏の文化を勉強しようとしない米国人の観客に問題があるというメッセージを訴えているのだと思う。それを非英語圏の国で字幕版を作成する際にも踏襲し、そこで話されている言葉が分からないのはあなたの不勉強だよと改めて強調しているのだろう。

おそらく、権利上の理由で字幕を表示できなかったと言っているのは本編中に使用された過去の名作映画の台詞や主題歌のことなんだろうね。
過去に劇場上映されたり映像ソフト化されたものと多少言い回しを変えたとしても翻訳字幕にも著作権があるから再使用するなら使用料を払わなくてはいけないってこと?何だかおかしな話だけれどね。

そんなわけでこうした理由から(字幕問題は直接関係ないが)決して名作とは言えないなとは思った。でも、映画ファンなら感動せずにはいられない要素も多い作品だった。

ブラピ演じるサイレント映画の大スターが舞台女優の妻に対し、“映画を舞台より格下のように見るのはやめろ。わずかな金持ちの高齢者の評価だけで決まる舞台と異なり、映画は大勢の一般市民に見てもらって初めて成功したと言えるんだ。閉ざされた世界でしか評価されていない連中が偉そうなことを言うな”といった趣旨の台詞(意訳)を述べるシーンは感動してしまった。

また、この大スターはトーキーという新しい流れを否定してはいけない。新しいものや若者を何でも批判する老害に自分はなりたくないと思っている。でも、自分がその新しいやり方に対応できないことも分かっている。その葛藤に苦しむ姿というのは中高年の映画ファンなら涙せずにはいられないのでは?

それにしてもブラピは相変わらずカッコいいよね!年末に60歳になるとは信じられない!
そして、この30年ほどの間、スランプも人気低下も休業もなく活動し続けてきた上に、プロデューサーとしても俳優としてもアカデミー賞を受賞しているんだからすごいよねって思う。
ちなみに自分がブラピ出演作をスクリーンで見たのはこれが43本目らしい。どうやら、ファンのようだ。

ところで、最近のハリウッド映画って上映時間の長い作品が多すぎるよね…。
「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」が日本でだけ映画ランキングで首位に立てなかった理由の一つに上映時間の長さを敬遠した観客が多かったこともあげられているしね。

若者を中心にタイム・パフォーマンスを求める時短の考えが浸透し、ヒットする曲はイントロや間奏が短い曲ばかりという風潮は海外でも日本でも共通している。
でも、映画など映像作品だとこうならないのは不思議だ。日本は音楽同様、映画などでもランニング・タイムの短い作品が好まれているが海外は長尺映画が人気なんだよね…。

自分はどちらかと言えば映画マニアにカテゴライズされる人間だから、映画は映画館で見ようと配信で見ようと1秒たりとも画面から目を離すのはありえないし、最初から最後まで編集されたままの状態で見るものだと思っている。

でも、海外の映画ファンはそうではないんだろうね。本作でもそうだったけれど、米国映画って登場人物が映画館に入って途中から映画を見るというシーンがよく出てくるしね。

おそらく、海外では映画を映画館で見る時は連れと一緒にポップコーンでも食べながら見るというライブ参戦的なノリか、1人で時間つぶし的に見るという感じなんだろうね。

そして、自宅などで配信で見る時は、その日の気分や体調、スケジュールなどにあわせて1本の映画を何度かに分割して見るという感じなのかな。たとえば、今日は頭から40〜50分くらいの区切りのいいところまで見たから、明日はその続きを、そして、それでも最後まで見られなかったら、さらにその続きはまたその次の日にみたいな発想なんだろうね。

だから、映画館で見るにしろ、配信で見るにしろ、上映時間は気にならない。しかし、日本人は映画は一度に最初から最後まで見ないといけない(エンドロールは見ない人も多いが)と思っている人が多いから、映画館だと長尺ものは敬遠するし、配信だと倍速再生で一気に見ようとなってしまうのかな。

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