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なんだって?倭国と大和が手を組んだ??

本当ですか?大和王権と北部九州倭国が手を組んだ!?だと?

九州王朝理論とは

古田武彦氏が提唱した説で、北部九州の地域に九州王朝があったとする説です。中国の歴史書に出てくる倭国とは、北部九州の連合国家のことであり、近畿のことではないのだと。

一元史観と多元史観

王朝は日本書紀によれば一つだけだが、しかし、複数の王朝がかつて存在していたとなります。学校で教えられる日本史は基本的に日本書紀の仏教伝来時代からスタートします。それ以前は中国の歴史書に頼りますので、その時、倭とは日本のこととして習うのです。だから、昔から日本という王朝があったのだと思ってしまうわけです。そうではないと言っているのが古田武彦氏とです。

倭国エリアが浮かび上がる

今回は、タカ王も納得いく、北部九州に倭国がないと成立し得ないと思しき箇所が『日本書紀』にも発見しました。のでご紹介していきます。

↓訳出はすべて鷹原王解釈です。

景行天皇十二年(325年ころ)、熊襲(熊本鹿児島宮崎の部族)が貢物を持って、春の春新年のあいさつに来なかったそうです(大和王権に)。それで、景行天皇は思い立たれ、熊襲討伐に動きます。「筑紫」にまず向かわれたのだと。

長尾に泊まる

途中、山口県の周防に着き、宇佐を制圧し、福岡県行橋長尾に仮のお住まいを立てて、しばらくおられました。

長尾の意味

北部九州倭国のエリアの東の端です。広く「筑紫」で、長尾県主(あがたぬし)と呼ばれる王か知事がいた場所です。大和王権にとっては、

他国のエリアに入ることになるので

何か意味があったはずです。少なくとも、他国エリアに踏み入れると言うことは外交上の交渉が行われたということになる。今回の行動の目的は熊襲討伐なので、考えうる範囲で行くなら、

「北部九州倭国よ、我が大和王権と連合軍を組んで、熊襲討伐に協力しないか」

となるわけです。

これは今のところ、古田史学の方々の著書で、お目にかかっていない説です。もしかして誰かが唱えていたらごめんなさい。鷹原王が初めてなら、引用する時、ちゃんと引用印つけてねw。

九州東部討伐

景行天皇一行は、九州を東回りに宮崎まで制圧します。そして、熊本県鹿児島県の熊襲を制圧しました。

変なルート

熊本から北上して、長崎県あたりや、筑後水間を経由し、内陸を横断し、宮崎の日向に着いた。そして、近畿に帰りますと。

注目すべきはここです。

筑後水間に来て、水沼県主と対面します。内陸を横断しながら日向に作っておいた拠点に帰ってきたと言うこと。

景行天皇が通ったのは、「筑紫」とされるエリアの東の端である①長尾と、②筑後水間です。八女県や、水沼県主と出てくるので、景行天皇らは筑後水間を通って東南の宮崎の日向の拠点に帰ったと。しかも、水沼県主とは争いなんてしていません。

筑後水間は筑後地域のほぼ南端=筑紫の南端なのです。

昔は、筑後筑前とせず、筑紫ひとまとめです。

『邪馬台国の全解決』には

伊都国(糸島市)が一大卒(大倭王)がいる場所で、卑弥呼が博多の西の方の高祖山にいた。と孫氏が解釈していたぞ。

説を合体

倭国が北部九州にあるとは古田武彦が言っていたことです。『邪馬台国の全解決』も含めると、糸島市が政治の中心地ということが言えます。春日市辺りにある弥生銀座とされる遺跡の豊富な地帯は、倭国の経済の中心地。いろんな有力豪族もそこに邸宅を構えていたと。

結局何を言いたいのか

「景行天皇は、北部九州の中心地(博多や春日市や太宰府のあるエリア)をまったく経由していないではないか!」
「北部九州の部分だけがポッカリ空くようなルートだった」

ことがわかりいただけると思います。


軍隊は?

どうなったのでしょうか。

北部九州の倭国軍らは、宮崎の日向には戻らないでしょう。倭国軍らの拠点は、北部九州なので逆方向になります。だから、宮崎日向に戻ることはない。大和軍と筑後水間でお別れしたと考えるのが合理的です。筑後水間より北のエリアは倭国の支配域なのです。

もしも大和単体で熊襲討伐をやるなら、

北部九州倭国にとっては逆に自分たちに攻撃の矛先が向かわないか、にっちもさっちもいかないですし、北部九州倭国がなかったとするなら、なぜ北部九州エリアがポッカリと空くのか辻褄があいません。占領してくれたという記事が出てもおかしくないですもんね。

もしもすでに大和が倭国を併合していたというのなら、

仲哀天皇神功皇后の時に、伊都県主が半年近く山口県で、待たせた理由もよくわからない。山口県の場所まですぐに来て天皇陛下に全力であいさつに行くものでしょう。

もしも倭国単独で熊襲討伐をやったとするなら、

周防国が日本書紀に載る理由がよくわかりません。筑紫から東回りに行くなら周防なんて横を素通りするだけでしか必要ないですし。

まとめ

ということで九州北部に倭国がないと景行天皇の熊襲討伐は成立し得ない。

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