鷹王(学校では教えてくれない日韓古代史)

歴史系noteブロガー(鷹王)。学校ではほとんど教えてくれない古代史2020/6月始動…

鷹王(学校では教えてくれない日韓古代史)

歴史系noteブロガー(鷹王)。学校ではほとんど教えてくれない古代史2020/6月始動!関学国際(神道、仏教、古代史に興味)→某東証一部上場企業4年勤務→古代史ファンとしても活動中https://note.com/takaoh

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気になる聖徳太子の出自

意外と知らない聖徳太子の出自を記してみました。 『飛鳥の朝廷』を参考にしています。 興味ない方も本だけチラっと 要するに、聖徳太子(厩戸王子)は...「欽明天皇の孫」 古い順から見ていきます。 欽明天皇の子供は、用明天皇(太子の父)です。そして、用明天皇の子が厩戸王子です。 この用明天皇(太子の父)の真実とは? 用明天皇は蘇我氏を外戚にとする初めての天皇になりました。外戚とは、藤原の栄華時代のように、ええとこさんの家庭が大切な娘さんを天皇家に嫁がせました、嫁に出

    • 聖徳太子の年表まとめ

      新たな発見をしてください。 今回は、梅原猛氏の『聖徳太子』を参考にしてまとめてみました。参考図書です。 興味ない方も本だけチラっと 506蘇我稲目誕生(〜570) 538年仏教が公レベルで伝わった 545百済が欽明天皇のために丈六の仏像を造った 551蘇我馬子誕生(〜626) 552百済の聖明王が仏像・経論を献上し、蘇我稲目が向原の家を清めて寺とした。 570物部尾尾輿らが寺を焼き仏像と経論を難波江に流した、蘇我稲目が死去。 574(1)聖徳太子誕生(以後は厩戸王

      • 626蘇我馬子が亡くなった、桃原墓に葬った。蘇我蝦夷が大臣に就任 628推古天皇が崩御、田村皇子(のちの舒明天皇)と山背大兄皇子に遺言状を遺すも、 次期天皇問題について群臣で協議紛糾した。蘇我蝦夷ら境部臣摩理勢(蝦夷の叔父)を殺し、田村皇子を擁立、 629舒明天皇即位(田村皇子)

        • 623鞍作鳥という職人さんが作った法隆寺金堂釈迦三尊像が完成した。新羅任那の使者は仏像、金塔、舎利、観頂幡を献上した。新羅との貢物に関する問題について吉士磐金を派遣した、さらに、蘇我馬子は境部臣雄摩侶を大将軍に任命して征新羅軍を派遣した。

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        • 真実の神功皇后
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        • 誰より圧倒的にわかりやすく十七条の憲法独自訳
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        • 浮かび上がる卑弥呼の真実
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        • 知りたかった倭の五王
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        • 鷹原王(学校では教えてくれない日本古代史の教養マガジン)
          54本

        記事

          620上宮太子は蘇我馬子と相談しいくつかの書物を完成させた、天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部、公民等の本紀 621間人皇后(太子の母親)が亡くなった。新羅が朝貢した 622上宮太子は斑鳩宮で亡くなった。磯長陵に葬った。橘大娘女(太子の嫁さん)は太子をしのび天寿国繡帳を作った

          620上宮太子は蘇我馬子と相談しいくつかの書物を完成させた、天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部、公民等の本紀 621間人皇后(太子の母親)が亡くなった。新羅が朝貢した 622上宮太子は斑鳩宮で亡くなった。磯長陵に葬った。橘大娘女(太子の嫁さん)は太子をしのび天寿国繡帳を作った

          615上宮太子は法華経の注釈書を完成させた。隋に派遣した犬上君御田鍬らが帰国した。慧慈(上宮太子の仏教の師匠)は高句麗に帰った 新羅は仏像を献上し蜂岡寺に納めた 618隋煬帝が殺されたた、高句麗の使者が隋の滅亡を伝えた。唐が李淵によって建国された

          615上宮太子は法華経の注釈書を完成させた。隋に派遣した犬上君御田鍬らが帰国した。慧慈(上宮太子の仏教の師匠)は高句麗に帰った 新羅は仏像を献上し蜂岡寺に納めた 618隋煬帝が殺されたた、高句麗の使者が隋の滅亡を伝えた。唐が李淵によって建国された

          611上宮太子勝鬘経を注釈した。 612上宮太子維摩経の注釈を開始した。百済の味摩之が帰化して呉の伎楽舞が伝えられた。(煬帝による第一次高句麗遠征) 613上宮太子は維摩経の注釈書を完成させた。(数え40歳) 614上宮太子は法華経の注釈を開始した。隋に犬上君御田鍬らが派遣された

          611上宮太子勝鬘経を注釈した。 612上宮太子維摩経の注釈を開始した。百済の味摩之が帰化して呉の伎楽舞が伝えられた。(煬帝による第一次高句麗遠征) 613上宮太子は維摩経の注釈書を完成させた。(数え40歳) 614上宮太子は法華経の注釈を開始した。隋に犬上君御田鍬らが派遣された

          605天皇は丈六の仏像を造らせた、上宮太子は斑鳩宮に住まうようになった。 606丈六の仏像を飛鳥寺に納めた、上宮太子が勝鬘経と法華経を講説した。(数え33才) 607小野妹子を隋に派遣した。 608隋から答礼使の裴世清が訪日し帰国した。 609勝鬘経の注釈を始めた。小野妹子帰国。

          605天皇は丈六の仏像を造らせた、上宮太子は斑鳩宮に住まうようになった。 606丈六の仏像を飛鳥寺に納めた、上宮太子が勝鬘経と法華経を講説した。(数え33才) 607小野妹子を隋に派遣した。 608隋から答礼使の裴世清が訪日し帰国した。 609勝鬘経の注釈を始めた。小野妹子帰国。

          603来目皇子が筑紫で亡くなる、当麻皇子を撃新羅将軍に任命するも妻が亡くなったため引き換えし新羅遠征は中止となった。 上宮太子は斑鳩宮から小墾田宮に移った。冠位十二階を制定した。 604憲法十七条を制定した。(隋では煬帝が即位した)

          603来目皇子が筑紫で亡くなる、当麻皇子を撃新羅将軍に任命するも妻が亡くなったため引き換えし新羅遠征は中止となった。 上宮太子は斑鳩宮から小墾田宮に移った。冠位十二階を制定した。 604憲法十七条を制定した。(隋では煬帝が即位した)

          596厩戸王子は、慧慈と葛城臣と、伊予国湯岡に温泉旅行に行き、碑文を建てた。飛鳥寺が竣工し、寺の長は善徳(蘇我馬子の子)。 600隋に初めて使者を派遣した。 601厩戸王子は斑鳩宮を建てた。 602来目王子を撃新羅将軍にし、大量の軍を新羅戦に動員するも、来目王子が病死し遠征し中止

          596厩戸王子は、慧慈と葛城臣と、伊予国湯岡に温泉旅行に行き、碑文を建てた。飛鳥寺が竣工し、寺の長は善徳(蘇我馬子の子)。 600隋に初めて使者を派遣した。 601厩戸王子は斑鳩宮を建てた。 602来目王子を撃新羅将軍にし、大量の軍を新羅戦に動員するも、来目王子が病死し遠征し中止

          590飛鳥寺の用材を伐りだす、善信尼らが帰国し桜井寺に住む 592飛鳥寺の仏堂と歩廊は完成 593飛鳥寺の塔の土台のなかに仏舎利を入れる 594三宝興隆の詔をだし諸臣らは競って寺を建てる 595慧慈(高句麗の僧侶)が帰化し上宮太子の先生となる、慧聡(百済の僧侶)も飛鳥寺にすむ

          590飛鳥寺の用材を伐りだす、善信尼らが帰国し桜井寺に住む 592飛鳥寺の仏堂と歩廊は完成 593飛鳥寺の塔の土台のなかに仏舎利を入れる 594三宝興隆の詔をだし諸臣らは競って寺を建てる 595慧慈(高句麗の僧侶)が帰化し上宮太子の先生となる、慧聡(百済の僧侶)も飛鳥寺にすむ

          聖徳太子のことを上宮太子と書いている仏教の宗旨を発見。ちなみに日本最大の仏教宗旨です。厩戸王子のことを、上宮太子と言えば、誤りも脚色も一切なし。上宮に住んでいたこともあり、太子でもあったわけなので。聖徳太子はいなかったとよく否定されるが、上宮太子はいなかったとできる人ものか?

          聖徳太子のことを上宮太子と書いている仏教の宗旨を発見。ちなみに日本最大の仏教宗旨です。厩戸王子のことを、上宮太子と言えば、誤りも脚色も一切なし。上宮に住んでいたこともあり、太子でもあったわけなので。聖徳太子はいなかったとよく否定されるが、上宮太子はいなかったとできる人ものか?

          584司馬達などの娘を女性僧侶にした。蘇我馬子が仏法に帰依した 585蘇我馬子が大野丘の北に仏塔を建てた。疫病のため、物部守屋と中臣勝海らが、天皇認可で、寺と塔を焼き、難波堀江に仏像を棄てた 587年物部守屋を滅ぼした 588百済が仏舎利や僧侶や建築士を献上した、飛鳥寺の建設着工

          584司馬達などの娘を女性僧侶にした。蘇我馬子が仏法に帰依した 585蘇我馬子が大野丘の北に仏塔を建てた。疫病のため、物部守屋と中臣勝海らが、天皇認可で、寺と塔を焼き、難波堀江に仏像を棄てた 587年物部守屋を滅ぼした 588百済が仏舎利や僧侶や建築士を献上した、飛鳥寺の建設着工

          538年仏教公伝 545百済が欽明天皇のために丈六の仏像を造った 552百済の聖明王が仏像・経論を献上し、蘇我稲目が向原の家を清めて寺とした。 570物部尾尾輿らが寺を焼き仏像と経論を難波江に流した 574聖徳太子誕生 577百済威徳王が経論などを献上 579新羅が調と仏像を献上

          538年仏教公伝 545百済が欽明天皇のために丈六の仏像を造った 552百済の聖明王が仏像・経論を献上し、蘇我稲目が向原の家を清めて寺とした。 570物部尾尾輿らが寺を焼き仏像と経論を難波江に流した 574聖徳太子誕生 577百済威徳王が経論などを献上 579新羅が調と仏像を献上

          太子関連 29欽明(540〜571)(磯城嶋天皇、天国排開広庭天皇) 30敏達(572〜585)他田(訳語田)天皇、渟中倉太珠敷尊 31用明(586〜587)大兄皇子橘豊日命、橘豊日天皇 32崇峻(588〜592)泊瀬部天皇 33推古(593〜628)額田部皇女、豊御食炊屋姫天皇

          太子関連 29欽明(540〜571)(磯城嶋天皇、天国排開広庭天皇) 30敏達(572〜585)他田(訳語田)天皇、渟中倉太珠敷尊 31用明(586〜587)大兄皇子橘豊日命、橘豊日天皇 32崇峻(588〜592)泊瀬部天皇 33推古(593〜628)額田部皇女、豊御食炊屋姫天皇

          厩戸王子のほかの名前 ○法王大王(596年の伊予道後温湯碑により)→数え23歳のとき ○等与刀弥々大王(トヨトミミ)(609年作られた元興寺の丈六仏の光背銘より)→数え36歳のとき 豊聰耳(トヨトミミ)とは=耳がさとい=聡明な、という意味。

          厩戸王子のほかの名前 ○法王大王(596年の伊予道後温湯碑により)→数え23歳のとき ○等与刀弥々大王(トヨトミミ)(609年作られた元興寺の丈六仏の光背銘より)→数え36歳のとき 豊聰耳(トヨトミミ)とは=耳がさとい=聡明な、という意味。