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壮士演歌とええじゃないかとは?

近代はやり唄集(岩波文庫、倉田喜弘著)
ええじゃないか 民衆運動の系譜(講談社、西垣晴次)
日本の流行歌 栄枯盛衰の100年、そしてこれから(ミネルヴァ書房、生明俊雄著)
新版上 日本流行歌史(社会思想社)
絵が語る知らなかった幕末明治のくらし事典(遊子館、本田豊著)
民俗芸能入門(文研出版、西角井正大著)
明治維新と噺家たち 江戸から東京への変転の中で(本の泉社、柏木新著)
日本民族の感性世界(同成社、竹岡俊樹著)

より

壮士演歌とは
明治大正期の流行歌。日露戦争前の明治二十年頃、漢語混じりの荒々しい唄い方で、当時の民衆の熱気が溢れるような歌。

1868年に日本は鎖国から開国し、明治維新が始まる。社会変革は一方で不平士族や、物価高騰、地租改正や徴兵制など庶民に苦しい生活を強いるもので、「主権は国民にあり」を主張する壮士(政治活動家や学生)による自由民権運動が起こる。(教育運動革命でもある。)この演説会が政府の言論弾圧で取り締まられたため、代わって演劇や歌での活動が起こり、「はやりうた」が多く作られた。明治十五年以降、演説禁止により運動家は講釈師や噺家になっていった。


子どもにまで急速に広まって大流行していた。
卑猥なものも多かった。取り締まりの対象になっており、口にしただけで罰金や禁固刑が課せられた。

日本人の歌唱力は、音痴で方言が強く酷いものだったようだが、日露戦争を契機に、子供たちの間で軍歌がはやったこと、後に日本初の流行歌となる松井須磨子の「カチユーシヤの歌」が大ヒットしたことで、どんどん歌唱力が進歩した。初めての西洋音階もその後浸透。学生歌や讃美歌も広がっていく。芸人も一転、戦争支持へ。
このヒットには、帝国劇場開場後の芸術座の「復活」の話題から、レコードの広まりが一役買っていた。



大正後期には、「籠の鳥」など卑弱哀傷な流行歌が全国に各地で口ずさまれるようになり、子供たちを流行り唄から遠ざけようとする動きがあり、急速に洋風音楽へ切り替わる昭和へと流れていく。


その中でも、「やっつけろ節」は明治二十四年(1891年)の寄席の唄。

この頃は、憲法の発布(1889)、施行、そして幕末に外国と締結した不条理な条約の改正で、日本中が沸いていた。関連する唄も唄われていた。
壮士節の第一声は「ダイナマイト節」。最も人気は「オッペケペー節」(自由民権運動から噺家、壮士芝居を行なった川上音二郎のアレンジ)

天保の改革で1842年に寄席とりつぶし令。1845年撤廃で寄席急増。
明治新政府も、1869年から明治後期まで何度も、芸能分野や寄席で天皇崇拝、勧善懲悪、淫風禁止、身分相応などで取り締まりを強めた。
教導職になるもの、不敬罪になるものがいた。

倍増した東京市民の嗜好の変化や不況、コレラ流行で、滑稽噺の笑える派手な芸、珍芸が求められるようになる。

壮士の江沢竹次郎が寄席にて、春風亭雙枝の芸名で唄ったのが始まり。
過激な歌詞のため、街路取締規則第十五条で取り締まられていた。

自由民権運動の活動家が演説禁止によって生み出した産物である、壮士自由演歌は、その後次第に「演歌」という名前で呼ばれるようになる。壮士の行為も政治運動から、生活を支える歌手職業へと変わる。演歌師となる。明治半ばから苦学生のアルバイトとなり、「書生節」といわれるように。

演歌の精神は、都々一で幕末の世相を風刺した初代都々一坊扇歌の精神に繋がる。


壮士の唄より
当時、反政府的な活動家たちは皇居の近くから退去、追放された。
国の人々の力を合わせて、維新や海外との条約改正、日本の民主化を進めていこうと、自由を訴える歌詞が特徴的。欧化主義への痛烈な揶揄、議員の不正批判など。
贅沢や出過ぎた欲を押さえるように、女子供は男に従順にあるようにと。

書生の唄より
自死をドラマティックに美化した唄、炭鉱や鉱山の労働者を鼓舞する唄、敵討の唄、囃子言葉が目立つ。政治批判が減って、資本主義の題材、時事風刺へ。

当時の壮士唄や書生唄には楽器がなく、アカペラだったが、伴奏楽器として取り入れられたのは意外にもヴァイオリンで、サウンドがぐっと整った。ヴァイオリン演歌の誕生。オルガンは当時まだ少なく、ピアノは大正末期から日本に輸入された。



「ええじゃないか」
幕藩体制(封建支配体制)が崩れた慶応3年(1867)夏から翌年はじめに、日本の広範囲の地域で引き起こされた他にないかたちの民衆運動。名古屋から広まり、11月には江戸に降る。
世直しの期待からええじゃないかと叫びながら、卑猥な囃子を立てながら、降ってきた神仏の御札に熱狂して、晴着姿や裸や神や異性に扮して、定型なく走るように踊り狂う人々。

はじめは、御札の降下が官にとどけられ、その許可によって祭りや踊りが行われ、支配層も黙認していたが、しばらくすると逆に禁止令が出された。お札の降り方は勢いや範囲に偏りがあり、怪しむものも出て来たが罰せられた。幕政末期の藩体制の弱体化が見えてくる。

地域によってこの騒ぎは、「ヤッチョロ祭」「チョイトサ祭」とも呼ばれた。

大和や河内では、この混乱を「御蔭踊り」と呼んでいた。文政のおかげ参り(1830〜)の衰退からおかげ踊りに取って代わられた。同時に、神社に絵馬を奉納する風習。秩序ある形態で、御神灯を吊るした境内で、太鼓や三味線が並び、百人もの揃い衣装のの踊り手が揃って踊っていた。笠や面や手拭い、扇子など趣向をこらして、他村へ踊りかける。村や町の公の行事としての色が強い。御祓の落下や米の不作や幕藩体制の危機がきっかけとなって流行。

実際に、討幕の立場の藩にはみられていない。背後に政治的作為がある。

口々に唱えられた「ええじゃないか」「よいじゃないか」「いいじゃないか」という文句はひとつの囃し言葉で、適宜文句がつけられた。豊作などの祝い言葉が多く、世直りへの期待が高まっていく。しかし、これまで自ら民衆が生み出した百姓一揆や打ちこわしによる世直しでなく、あくまで神符類の降下や伝統的神についての観念による多動的な世直りでしかない。

明治以降も民衆の間で、「ええじゃないか」が一つの囃し言葉として定着し、深く生き続けていた。



「ええじゃないか」の要素
①神符などの降下
②それを祀る
③数日の祝宴
④人々の男装や女装の非日常性
⑤ええじゃないかの歌と踊り
⑥領主の命令による平静化
⑦煽動者の存在
⑧世直し意識と期待
⑨数回の伊勢神宮へのおかげ参り
⑩歌の猥雑さ


民衆運動とは
狭い意味では、中世の土一揆、近世の百姓一揆や近代の米騒動など、明確な目的のために既存の社会体制に密接した勢力に対立する構造を持つ。
広い意味では、「ええじゃないか」など、目的ははっきりしないが社会構造と文化構造のひずみに発生して、無自覚的に宗教や儀礼や芸能など様々な要因が集結して、人を巻き込んでその変革エネルギーが既存の社会体制に影響を与えるもの。

天からの落下は幸福の到来という意識は長く人々の間にありつつづけている。そして、広くは具体的な社会改革の運動には直結していない。

民衆運動のあらわれ
大化前代(644)の日本書紀の常世神、神祭り、奈良時代末(780)の求福行動は有位の官人まで巻き込まれて禁制が出た。平安京(807)の民衆を煽る巫覡(ふげき)取締り。
そして志多羅神上洛(945)では京に民衆を祀る形態の神輿がやってきてその流れが次第に数千万の群衆に膨れ上がった騒ぎ。農作の童謡でリズムと歌の歌舞をなしていた。支配体制の変化など歴史の転換点において、不安や動揺によって民衆が狂乱し、平和な理想を歌にして叫んだ。村落の管轄者の同行が、実は秩序が存在していたことを裏付けている。
志多羅=手を打って拍子をとること→設楽踊り(びんざさら=除災悪霊除け)の「伝統的儀礼などの行動」と「新しい社会体制の形成」が見える。
その後、嘉保三年(1096)の田楽大流行、都の下級官人から貴族階級まで巻き込んで。
暫く空いて、慶長十九年(1614)の伊勢神宮中心に起こった神の託宣による伊勢踊(神躍、風流躍、笠躍とも)、戦乱や災厄の影あり。歌の内容は過去の戦争から国の豊栄や長寿で、宗教家の山伏も関与していた。第二回伊勢踊りの流行は、元和七年(1621)、第三回の流行は寛永元年(1624)、他に1635、1653、1678の流行があった。村送りの型で全国で定着したこと、神宮の神官が関与していたことで次の「おかげ参り」につながる。
江戸ではおかげ参りは60年単位で起こり、下層の人や子どもにも広まり、卑猥な言葉など社会的逸脱も見られる。経済効果も高かった。意図的な御祓の落下も要因のひとつ。次第に暗い部分が知れ渡り、農作放棄問題などから、伊勢へ参るおかげ参りは衰退し、代わりに村単位のおかげ踊りが流行する。その後も断続的に続き、(1849〜)かっぽれおどり、稲荷おどりが流行。幕末のええじゃないかへつながっていく。

ええじゃないかの論点
すべて、神符類の降下がきっかけに起こっている。
歴史的にみて、熱狂的な世直し踊りとして幕藩体制崩壊の最後の群衆抵抗になり得たとする考えと、民衆が倒幕勢力に利用され組織と指導者とを持たない当時の民衆運動の弱さが現れたとする考えがある。
騒ぎが倒幕派の活動を幕府側の目から隠し、活動が自由にしたのは否定できない。


歌舞の目的2つ
まずは、災いを除去するためのもの。政府側の御霊会などで民間の慣習でもあった。
そして常世神事件など、支配体制に組み込まれていない非日常な観念から起こるもの。

童謡(わざうた)の特徴
人事や政治を諷するものから民衆の願望が込められたものへ。


江戸時代の階層社会では、宮廷貴族は「雅楽」、武士は「能楽」、農民は「民謡」、町人は「俗謡(ぞくよう)」の音楽を楽しんでいた。地方民謡が都会化されて俗謡となるが、1920年頃本場の一行の興行などで盛んに行われたものに「八木節」もある。この中で三味線の伴奏で歌われた三味線俗謡はやがて「はやりうた」となる。




明治の庶民たち
日清戦争を境に産業革命で大きく変わった
版籍奉還により、江戸は人口減で荒れ野原に
明治4年(1871)の散髪・脱刀勝手令による強権的暴力的なザンギリ頭の広まり、女子も断髪が盛んに
1877年新橋〜横浜間の鉄道開通、人力車の広まり、洋風建築
行灯や蝋燭から石油ランプへ変わる(明治二十年代がピーク)
リボンをつけたひさし髪は、明治から戦前昭和まで続く(昭和からは短髪も増える)
1883年鹿鳴館開館から宮中や華族に洋装が定着
明治後半から大正初期まで女学生は矢羽絣に袴
幕末は下駄や草鞋、素足が基本で、1870年に軍隊向けに初めて靴が作られる
カトリックの布教は、各地の江戸時代以来の長吏や非人の被差別居住地に特に積極的だった
1871年に穢多非人廃止、結婚の自由などの太政官布告、翌年の遊女解放令
明治初めに天皇は影の薄い存在だったが、1889年の大日本帝国憲法や1890年の教育勅語で、専制君主となっていく
明治に入って入墨や男性の長髪、混浴や裸体の禁止令や見世物禁止令が次々と出る、1873年の違式詿違条例
維新前後、来日アメリカ人増、不景気のためグアムやハワイ、アメリカカナダブラジルへの移民も増える
明治中頃まで都市貧民はその日暮らしの屋台などの小商人、働く女性も多かった
1887年〜1895年で物価は3割増に
明治初期は放火などによる火事が多かったが、火消し道具はあまり進化せず
地元の豪農や実業家から多額をもらって勉強する書生、貧乏学生もいた
トイレは貯蔵式だが、板から陶器のものに変わり出した
明治中頃まで銘々膳か箱膳、1887年以降丸食卓が増える
火鉢は暖やお湯をつくるのに必需品
牛肉店で牛肉鍋を食べる流行
武家屋敷撤去や寺社移転で町人町に変わり、都市構造が大きく変化、行商人が減り小売商店が増加
職人が仕事に困窮し、安かろう悪かろう商品が増える
海水浴の流行
明治初期に外国人の要望で都市から酪農業が始まる
農村では飢餓でも、土地の受け継ぎや労働力のため出生率が高いままだった
政府は小学校教育に重点を置いたが、子守のため女子の就学率は上がらず
一方で中学校が特権化され減り、不満から私塾や夜学校が開かれた
貿易額の半数をしめる生糸産業に従事する、田舎出身の製糸工女の労働環境は粗悪、炭鉱労働者も同様に奴隷労働だった、結核もはやる
1884年、負債の減免などを求めて困民等自由党員の主導で地域の数千人の農民が蜂起した秩父事件
権威を笑う落語が規制され、講談と浪曲が時勢にのる
新聞の部数拡大、本は木版印刷から赤飯印刷へ
戦費調達のためタバコ専売へ。鉄道や製糸、酒造も

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