「まちづくり家髙野公男」アーカイブ

故・髙野公男は1964年4月に一級建築士事務所マヌ設計連合(現マヌ都市建築研究所)を設立し、1992年東北芸術工科大学教授に就任、2015年に他界するまで日本の建築・まちづくりの実務・研究・教育に尽力しました。「まちづくり家 髙野公男」が遺した論考などをアーカイブしていきます。

「まちづくり家髙野公男」アーカイブ

故・髙野公男は1964年4月に一級建築士事務所マヌ設計連合(現マヌ都市建築研究所)を設立し、1992年東北芸術工科大学教授に就任、2015年に他界するまで日本の建築・まちづくりの実務・研究・教育に尽力しました。「まちづくり家 髙野公男」が遺した論考などをアーカイブしていきます。

    最近の記事

    マヌ50周年を迎えて Ⅱ.再開発篇 人・街・建築 〜草の根をさまよう〜 その5

    ついに再開発編の最終回です。 上野アメヤ横町の再開発計画に参加した高野は、バラック建ての店舗がひしめく空間をさまよう中で、アメ横の特性を活かした商業空間を探ります。 高野の考えた開発モデルプランと、魅力的な商業空間とは。 (本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。) (4)上野アメ横再開発計画  昭和48年5月、中小企業指導センターの研修講師仲間として知り合った板倉徳明(東京都商工相談所主任指導員)さんから

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      • マヌ50周年を迎えて Ⅱ.再開発篇 人・街・建築 〜草の根をさまよう〜 その4

         商業診断業務にて携わった、千葉県中小企業相談所の指導員、多田三郎氏とのエピソード。  「物語性も地域づくりの資源だ」という持論を持ち、地域診断の心得、各地域の商業活動に加え、その文化的背景まで語る多田氏。彼と関わる中で高野が感じ取った、地域づくりに関わる専門家に求められる資質とは? (本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。) (3)多田三郎さん  千葉県中小企業相談所の指導員、多田三郎さんは異色な行政職

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        • マヌ50周年を迎えて Ⅱ.再開発篇 人・街・建築 〜草の根をさまよう〜 その3

           津田沼での再開発プロジェクトをきっかけに、地域計画や商店街のまちづくりに興味を抱いた高野。都市計画や建築計画のコンサルタントとして、講師の仕事を依頼されます。  商店街診断をきっかけに、都市計画や地域振興のあり方を考えます。 (本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。) 2.津田沼駅前再開発その後  事業計画調査と平行して津田沼地区自動車交通量調査、公共駐車場基本計画、津田沼駅北口地区サンポービル再開発ビ

          • マヌ50周年を迎えて Ⅱ.再開発篇 人・街・建築 〜草の根をさまよう〜 その2

             新たな仲間と共に、津田沼駅地区の再開発計画に挑む高野。高度経済成長の中、変容する商業地・再開発による市街地像のあり方を検討します。 「一つの概念とそれを構成する要素は時代によって特色がある。タイムマシンが現代と過去を結んでも、互いにその思うところを伝え合うのは困難であろう。けれども、(中略)時代を超えて通じ合う人間生活の様々なシーンが観察できるのである」 (本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。) (

            • マヌ50周年を迎えて Ⅱ.再開発篇 人・街・建築 〜草の根をさまよう〜 その1

              まちづくり家・高野のコラボレーションによる取り組み。 マヌの仕事が軌道に乗り、高野は建築設計のみならず再開発・都市防災などの業務にも携わることとなります。 人間味のある都市や建築を作り出すことをめざした高野にとって、再開発事業での取り組みは、転機の一つとなりました。 (本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。) 1.商店街のまちづくり  マヌ創設6年目、昭和45年(1970年)は転機の年だった。再開発や都

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              • 都市化社会におけるアーバン・デザインの方法 ~街づくりに立ち向かう方法は科学や技術の複雑な論理ではない~ その2

                掲載誌:商業建築年鑑(昭和46年5月) 髙野が当時関わった「津田沼北口地区再開発計画」での経験を基に書かれた論考。 再開発の原型 再開発はいわばステレオアンプの買い換えや、在宅の改築のようなもので、その規模の大きくなったものと考えて間違いない。  今まで使っていたものが、いつのまにか、古くなって不便を感じたり、不都合を生じたり、好みに合わなくなったり、取り替えてしまおうとすることである。この場合には、必ずその「古くなったもの」とそのものの「主人」とその家族など、利用者がいる

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                • 【発表論文】都市化社会におけるアーバン・デザインの方法 ~街づくりに立ち向かう方法は科学や技術の複雑な論理ではない~ その1

                  掲載誌:商業建築年鑑(昭和46年5月) 髙野が当時関わった「津田沼北口地区再開発計画」での経験を基に書かれた論考。「都市化」という課題に対して、トップダウンの「論理」で進めるのではなく、地域の身近な悩みを聞くことから解いていく必要があることを、独特の論調で説いている。 前文津田沼は東京と千葉市の中間にある中くらいのターミナル駅である。私がこの総武線を利用して通学していた10数年前までは、どこにでも見られる「田舎町」であった。ところが、ここでもやはりこの数年間に街の様相が一変

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                  • マヌ50周年を迎えて その7

                    いよいよ創業編の最終回です。 髙野は浅草の靴問屋街のビルの設計をすることになります。 設計監理で靴問屋街に通う中、髙野は街の日常や文化に浸かっていきます。 「継続的に同じ地域に通い続けると親しみがわいてくる。(中略)環境に同化し自分もその街の一員となって一緒に呼吸しているような感覚を覚えるのである。」 (8)浅草馬道界隈のビルづくり 会計士森助紀さんの紹介でキャロンシューズの自社ビルの設計をすることになった。キャロンシューズは婦人靴を扱う問屋さんで、木造2階建ての社屋は浅

                    • マヌ50周年を迎えて その6

                      マヌ創業当時のスタッフや仕事について語られます。 その後、ランドスケープアーキテクトとして活躍されたスタッフの昨今の都市デザインへの問題意識に、髙野は影響を受けます。 ・・・「親父は山で仙人のような生活をしている」 ご家族から学んだ「環境デザインの使命感」とは? (本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。) (6)創業期のマヌのスタッフ 共同経営者、水野可健君は九州大学建築学科出身で東大生研時代からの僚友

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                      • マヌ50周年を迎えて その5

                        故・髙野公男の万華鏡のような都市・建築の回顧録。住宅設計に関わった作曲家・真鍋理一郎氏、大工・田中文男氏とのエピソードが語られます。 (本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。) (3)住宅の設計 住宅の設計は建築デザインの原点であると考えていた。したがって、住宅設計の依頼や相談があればクライアントの求めに応じて対応することを基本方針とした。新築の設計はもちろんのこと、キッチンの改造(真鍋邸)からオーディオ

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                        • マヌ50周年を迎えて その4

                          建築設計事務所を開業した髙野。いざ看板をあげてみると、なぜか仕事が来なくなり、しばらく開店休業状態がつづきます。 多摩ニュータウンの開発事務所の仮設建築の仕事を受けた髙野は、初期のニュータウン計画の検討の現場に立ち会うことになります。 「そこには、自然と都市の調和を目指すプランナーや建築家のニュータウンにかける夢や思いが凝縮されていたように思える。」 (本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。) (10

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                          • マヌ50周年を迎えて その3

                             アトリエ「千駄木村」で豊かな青春時代を過ごす髙野の元に、建築設計の仕事が次々と舞い込みます。設計料の余ったお金を使って、髙野は仲間とヨットを購入します。  そして― いよいよ旧・マヌ設計連合の帆が上がります! (本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。) (7)会計士・森助紀さん 力量不足を「参加することに意義がある」という理屈をつけて、われわれ京都国際会館の設計コンペは見事落選した。このコンペでは誰が入

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                            • マヌ50周年を迎えて その2

                               東京大学の博士課程に進んだ髙野は、生産技術研究所、本郷キャンパス、アトリエを構えたアパート「千駄木村」で、多様な価値観・感性に触れる豊かな青春時代を過ごします。 「街の在り様は人々の感性を育てるのだろう。」 (本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。) (3)東大生産技術研究所 当時、星野研究室の所属する東大生産技術研究所(東大生研)は千葉市弥生町(現在の千葉大西千葉キャンパス)にあった。  前身は1

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                              • マヌ50周年を迎えて その1

                                故・髙野公男は1964年4月に一級建築士事務所マヌ設計連合(現マヌ都市建築研究所)を設立し、1992年東北芸術工科大学教授に就任、2015年に他界するまで日本の建築・まちづくりの実務・研究・教育に尽力しました。 本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・高野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。 1.はしがき 1964年4月東京オリンピックの年に建築事務所を開設して50年になる。現在、スタッフ十数人の小さな組織の事務所だが、よくもまあここまで潰れない

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