マヌ50周年を迎えて Ⅱ.再開発篇 人・街・建築 〜草の根をさまよう〜 その2
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マヌ50周年を迎えて Ⅱ.再開発篇 人・街・建築 〜草の根をさまよう〜 その2

 新たな仲間と共に、津田沼駅地区の再開発計画に挑む高野。高度経済成長の中、変容する商業地・再開発による市街地像のあり方を検討します。

「一つの概念とそれを構成する要素は時代によって特色がある。タイムマシンが現代と過去を結んでも、互いにその思うところを伝え合うのは困難であろう。けれども、(中略)時代を超えて通じ合う人間生活の様々なシーンが観察できるのである」

(本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。)

(5)デルファイ法・未来予測的手法による商業計画

 小林輝一郎氏は地域計画や商業計画に独自の理論を持つ異色のプランナーだった。「いくら過去のデータを積み上げて分析しても未来を予測できない」、統計資料を積み上げて地域を分析しそれで良しとする従来の疑似科学的な手法には批判的であった。分析的手法は必要条件であっても十分条件ではない。変容する社会の諸現象を総合的に把握し、計画に資する有益な情報や行動指針を得るためには、未来学的、戦略的、実践的な方法論が必要だというのが氏の主張であった。

 小林氏が指揮する商業計画グループでは従来の商店街診断、広域商業診断の手法に加えてDOSE法やデルファイ法を用いて計画作業を行っていた。DOSE法はDocumentation Orientation System design & Evaluationの略で小林氏が提唱する行動科学的見地に立った戦略的洞察、シンクタンク的未来予測の手法であった。

 津田沼駅前の商業計画では、各種商業調査の情報を基にジャーナリストグループ18人、商業専門家グループ10人の意見を整理・集約して商業計画に反映させている。その作業の結論として以下の見解が提示された。

・津田沼地区の再開発では、都市的魅力を優先して主婦・子ども・通勤客の利便性を中心にファミリーセンター的に形成し、周りの商業力に対して順応型をとり、場合によってスクラップ&ビルドの方式の建設が組めるように再開発に余力を持つこと
・津田沼駅前商業は栄える街の素質はあっても、経営者能力と開発の仕方によって栄えるか、だめになるかが決まる。


 界隈性やショッピングモールという概念がまだ普及していなかった時代の商業計画の提案であり、ハコものの集まり、固形物的な環境になりがちな再会開発事業に対して事業のプロセスや事業者の態度に柔軟性を求める提言であった。

 小林氏は商業計画分野のリーダー的存在であり、多くの商業プランナーに影響を与えた人である。マクルーハンやトフラーなどの文明論にもうんちくが深く、技術革新による社会変化の中での商業計画のあり方を探求されていた。在野の委嘱のプランナーだったが、この津田沼再開発のプロジェクトの後しばらくして急逝されたのが残念である。

(6)江戸名所図会によるパタン・ランゲージ

 この商業計画で印象に残ったことのもう一つは、小林氏のグループのある専門家から資料として提示された江戸名所図会によるパタン・ランゲージである(作成者不明)。この資料には、江戸名所図会から商業計画に関わりそうな絵図46枚がカードとして選び出され、そのカードそれぞれにコンセプトを示すピクトグラムとまちづくりのあり方を示唆するフレーズが示されていた。CONCEPT IN HISTRY と題された資料の冒頭にはこんな解説があった。

「一つの概念とそれを構成する要素は時代によって特色がある。タイムマシンが現代と過去を結んでも、互いにその思うところを伝え合うのは困難であろう。けれども、例えば<江戸名所図会>に見られる当時の都市生活には言葉というものは別にして、時代を超えて通じ合う人間生活の様々なシーンが観察できるのである」

 これも過去・現在・未来を結ぶ未来学的洞察による行動指針ではないだろうか。今見ても商店街計画やアーバンデザインの教材的資料として活用できるだろう。『パタン・ランゲージ』は米国の建築家クリストファー・アレグザンダーが提唱したまりづくりの理論(1977年出版・1984年邦訳)で、後に川越のまちづくりなど日本の都市デザインにも広く応用された手法であるが、すでにその6年以上前に同様のまちづくり指南書が出回っていたのだ。ひょっとしたらアレグザンダーはこの<江戸名所図会>のカードにヒントを得たのかもしれない。

(7)津田沼駅北口地区の現状と課題

 調査当時の北口駅前商店街は駅前通りと東金街道を結ぶ交差点までの路線商店街で106店の店舗が建ち並んでいた。店舗業態は大型店・サンポーショッピング(2)ほか、買い回り品(29)、最寄り品(24)、飲食店(28)、レジャー(8)、サービス(15)の業態を持つ店舗であり、近隣商店街に駅利用者を顧客とした飲食店やサービス業店舗が入り交じった当時どこでも見られた駅前商店街であった。地区内には船橋市の公民館が、商店街のはずれ新京成駅前近くにはボーリング場(30レーン)があり、唯一の地域レジャーの核としてよく利用されていた(中山律子などのプロボーラーが活躍していた時代である)。

 耐火建築の大型店と公共施設を除くと殆どが木造か簡易耐火の建物で殆どが戦後建築されたものだった。通りに面した店舗併用住宅の背後にはいわゆる「しもた屋」の一般住宅が混在していた。地区内の居住人口は199世帯781人、卸・小売り業などの商業従事者と会社員などの一般世帯との比率は2:1であった。

(8)街区計画と共同ビル

 商業計画の検討作業と連携して再開発による市街地像の検討作業を進めた。この津田沼再開発の特色は、事業手法が土地区画整理事業と都市再開発法による市街地再開発事業を組み合わせた合併施行であることだった。土地区画整理で交換分合された土地の上に共同ビルを建設し、土地の持ち分をビルの権利床として返す権利変換方式の複雑な事業で、全国でも実施例が少ない事業だった。このため再開発事業に精通した友人の柴田正昭氏に私的にアドバイスしてもらい作業を進めることになる。

 はじめに区画整理事業ありきという再開発計画だったので、街区形成の全体計画に手を加えられない制約があった。千葉県が目指す商業の近代化・高度化は共同ビル化と同義であった。区画整理事業による街区ブロックは14あり、商業グループから提示された街区の性格付けの指示図を基に各ブロックのモデルプランを作成した。

(9) 三極マグネット構造とペデストリアンデッキ

 地区スタディでは各ブロックの特性を踏まえ、回遊性を高め地区全体の活性を図るために三極マグネット構造を提案した。津田沼十宇路付近に大型店などの人を誘引できる核施設を造り、国鉄津田沼駅と新京成駅とを結ぶトライアングルの回遊性ある市街地構造の提案だった。

 津田沼駅は複々線化事業で橋上駅になる工事が進んでいたので、橋上駅からペデストリアンデッキを設置し、新京成駅との連絡通路、および各街区を回遊できる歩行者路とする構想も併せて提案した。ことに国鉄津田沼駅と新京成駅は400メートルも離れているので乗り換えの通勤客の利便性を考えて提案したものである。

 結果論となるが実施事業ではこの提案は生かされなかった。鉄道事業者と各ブロックの事業者との間の調整に折り合いがつかなかったのかもしれない。例えば現在、小田急電鉄町田駅とJR横浜線町田駅の離れた駅の連絡通路には雨天でも傘なしで歩行できる広幅員の屋根つきのペデストリアンデッキが出来ているが、公共空間のデザインとして後れをとっているような気がして残念でならない。

(つづく)

「津田沼北口地区再開発計画」での経験を生かして書かれた高野の論文も、よければ合わせてご覧ください。


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故・髙野公男は1964年4月に一級建築士事務所マヌ設計連合(現マヌ都市建築研究所)を設立し、1992年東北芸術工科大学教授に就任、2015年に他界するまで日本の建築・まちづくりの実務・研究・教育に尽力しました。「まちづくり家 髙野公男」が遺した論考などをアーカイブしていきます。