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マヌ50周年を迎えて その5

故・髙野公男の万華鏡のような都市・建築の回顧録。住宅設計に関わった作曲家・真鍋理一郎氏、大工・田中文男氏とのエピソードが語られます。

(本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。)

(3)住宅の設計

 住宅の設計は建築デザインの原点であると考えていた。したがって、住宅設計の依頼や相談があればクライアントの求めに応じて対応することを基本方針とした。新築の設計はもちろんのこと、キッチンの改造(真鍋邸)からオーディオルーム・音楽室の設計(柏木邸、矢倉邸)、離れの子供部屋の設計(長柄邸)、店舗の改装(藤橋眼鏡店、ナカヤ楽器店市川ショールーム)など細かい仕事も喜んで引き受けた。電化製品の普及やライフスタイルの変化によって住宅を増改築(リフォーム)する仕事も多かったのである。

 住宅設計のだいご味は、クライアントのプライベートな生活空間にかかわる創造的造形作業であり、大工・職人の世界とも密接な関わりがあり、時には民俗学的、時には風俗的な建築生産現場に立ち会えることである。昭和40年代当時、菊竹淸訓さんの「スカイハウス」、同世代では林泰義氏の「起爆空間」、宮脇檀氏の「もうびいでぃっく」、「松川ボックス」など前衛的な話題作が建築ジャーナルを賑わし、日本の生活空間があらゆる方向へ爆発、拡散していく印象があった。

 作風を確立したアトリエ系の建築家であれば自分の美的領域にクライアントをひき込んで造形作品として仕立ていくのだろうが、住宅作家を目指していたわけでもないので、生活改善を第一義とし、デザイン上の押しつけがましいことは出来るだけ避けるようにした。

 小田実の「何でもみてやろう」式ののりで何でも引き受けたのである。クライアントのライフスタイル、そのライフスタイルの背後にあるクライアントの生活世界、…家族の歴史、価値観、世界観、人生哲学といったものに触れることができるという楽しさがあった。

(4)真鍋理一郎邸の住宅改善

 作曲家の真鍋理一郎さんは大変ユニークな人だった。「うちの台所が使いにくいので相談に乗ってくれ」と頼まれた。千歳烏山のお宅に伺うと、奥さんが出てこられて「パスタを茹でるときシンクの上の棚が低いので作業がし難い何とかしたい」という相談だった。後でわかったことだが真鍋夫人(渡辺怜子)はイタリア文芸の翻訳家で(アントニオ・グラムシ『父から子どもたちへ』晶文社など)、また今で言う料理研究家のはしりでもありイタリア料理の普及にも尽力されていた。

 真鍋邸は遠藤楽さんの設計によるもので、「人間の住まいは淵の奥まったところにひっそりと棲む鱒のすみかのようでなければならない」という設計哲学のもとにデザインされた住宅であるということだった。そのためか間口に対して奥行きが長く、どこか洞窟を思わせるデザインで台所は狭く天井も低かった。

 タリアセンのフランク・ロイドライトの下で学んだ遠藤楽さんの設計思想にはモダニズムと一線を画すところがあって共感できたが、それにしても何故使いにくい台所が出来てしまったのか腑に落ちなかった。建築家は「機能」に一定の制約を与えても「哲学」の方を優先し、クライアントもそれを良しとしたのではあるまいか。

 建築家とクライアントの関係はどこか意地の張り合いのようなところがある。その意地の関係性の結晶が建築作品で、その葛藤の作品性が人の心を動かすのではなかろうか。真鍋さん一家は使いにくいこの住宅を大変気に入っていたようである。必ずしも合理的とはいえないこの建築家とクライアントの関係がおもしろかった。

 真鍋さんは当時、大島渚監督の「青春残酷物語」、その後の日活ロマンポルノ「花と蛇」、「ゴジラとヘドラ」など、映画音楽の作曲の仕事をされていた。東京工業大学で化学を専攻し、どういう分けか東京芸術大学で作曲を、その後イタリアで映画音楽を学び、音楽家の道に入った。千歳烏山のお宅では居間にグランドピアノが置かれ、その脇の個室にはシンセサイザーなどの機器が置かれていた。富田勲さんなどとも親交が深く、前衛的かつ伝統的な作風が魅力的だった。

 実は真鍋さんは私の自動車運転の師匠でもあった。クルマの購入を勧められ、軽井沢・御代田山荘の計画の際にかなりアクロバットなドライビングテクニックを指南してくれたのも真鍋さんだった。東京・軽井沢ラリーなど無茶な自動車レースなどにも誘ってくれた。

 後日談となるが、私が山形の大学で教鞭を執っていたとき、文化財保存学科に真鍋千絵という新しい教員が赴任してきた。当時小学生だった真鍋理一郎さんのお嬢さんだった。千絵さんはオーストリアで文化財(絵画)の保存修復技術を学びイコンの修復などを手がけておられ絵画修復分野では知られた若手の専門家であった。

 ある夜、大学のゲストハウスの食堂で旧交を温めるという機会を持った。そのとき「父は東工大の卒業研究では「振り袖火事」をテーマに振り袖が空に燃え上がり市街地に着火する様を数学的シミュレーションで再現した」という奇想天外なエピソードを語ってくれた。千絵さんも理系と芸術系の血をひくユニークな人柄であった。真鍋さんやそのご家族からは、反骨精神と世の中の楽しみ方を教わった。

(5)大工・田中文男さんのこと

 田中文男さん。愛称・大文(だいふみ)といえば知る人ぞ知る大工の棟梁である。

 田中さんと知り合ったのは千駄木村時代(昭和38年)だったと思う。アコマ医科工業本社ビルの設計を担当していた村上處直君が紹介してくれた。宮大工ということであったが、田中さんは当時真木建設の経営者で木造建築だけでなく鉄筋コンクリート造の建築工事も請け負っていた。林泰義氏設計の自邸「起爆空間」の工事も真木建設が請け負っていたと記憶する。

 アコマ医科工業のビルも田中さんが現場で陣頭指揮を執っていた。いつもベレー帽をかぶり最新のVANジャケットを着こなしたダンディな棟梁であった。学究肌で若手の設計者に講釈をするのが好きで、われわれも言葉に破壊力のある怪人大工、田中さんの講釈を聞くのが楽しみだった。そんな関係で浜田邸や雪印のスナックデアリー(新宿西口地下街)の工事を担当してもらった。

 田中さんというと江波杏子の映画「女賭博師」を思い出す。真木建設の事務所は当時新宿二丁目の裏通りのビルの2階にあった。浜田邸の時だったと思う。打ち合わせに行くと図面を描かされた。「おまえが描いた図面はよくわからない。ここで明日の朝までに原寸図を仕上げろ」というのだ。設計者であるのに何で大工の徒弟のようなことをしなければならないのか戸惑ったが、気迫に負けて従わざるを得なかった。

 徹夜で仕上げ図面を渡すと「よく出来た。これから映画を見に行こう」と新宿通りにある映画館に誘ってくれ、そこで観たのが「女賭博師」だったのである。啖呵を切る気っぷの良さと言うのだろうか、印象が強く残っているのは田中さんの気質がどこかこの映画とあい通ずるところがあったからだと思う。

 その後、田中さんは古民家の修理修復や若手大工の育成事業に専念されるが、江戸期の木造建築の防火・耐震技術までよく勉強されていて、ことある度に相談に乗ってもらった。田中さんと宮沢智士氏の主宰する勉強会にも呼んでもらったこともある。

 田中さんからはいろいろなことを教わった。「木に惚れろ」とか「若い建築技術者はハングリーでなければならない。死ぬほど苦労しなければまともな建築はつくれない」など、私が聞いた田中語録は数え切れないほどある。

 おそらく田中さんと一緒に仕事をした若手の建築家や職人、研究者は田中語録を肥やしにして成長していったのではあるまいか。社会を見る目も鋭く、大工棟梁の枠を超えた愛すべき技術教育者であった。2011年に急逝され、世の中が急に寂しくなった。

(つづく)

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