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マヌ50周年を迎えて Ⅱ.再開発篇 人・街・建築 〜草の根をさまよう〜 その5

ついに再開発編の最終回です。
上野アメヤ横町の再開発計画に参加した高野は、バラック建ての店舗がひしめく空間をさまよう中で、アメ横の特性を活かした商業空間を探ります。
高野の考えた開発モデルプランと、魅力的な商業空間とは。

(本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。)

(4)上野アメ横再開発計画

 昭和48年5月、中小企業指導センターの研修講師仲間として知り合った板倉徳明(東京都商工相談所主任指導員)さんから「アメ横の商店街再開発の調査があるので参加して欲しい」という電話がかかってきた。「すでに台東区が作成した再開発構想があるのだが地元になじんでいない。アメ横の特性を生かした再開発構想を提案してくれないか」というのが依頼の主旨だった。

 アメ横は特異な商業空間を持つ全国でも著名な商店街であり幼少時代から馴染みがある街なので喜んで引き受けた。一人では心細いので柴田正昭君(KGK・計画技術研究所・当時)も誘った。この調査は東京都経済局の事業で調査班は商工指導所商工部長を班長とする専門家17人(商工指導所指導員、中小企業診断士、不動産鑑定士、会計士、建築士、再開発コーディネーター、経営コンサルタントなど)という大がかりな編成の調査だった。私と柴田君は建築計画を担当した。

 アメヤ横町は、戦前長屋などの民家が並ぶ下町の住宅街だったが戦中、建物疎開で強制的にクリアランスされ、戦後その空閑地に進駐軍(駐留した米国軍)の放出品などを売る露天商たちがバラックを造り、自然発生的に市街地化した街である。ブラックマーケット(闇市)の名残も残り、細い通路に食料品や舶来の雑貨などをひしめき合って商うラビリンス(迷路)のような商業空間の調査は刺激的だった。

 このような都市空間の態様は建築学徒の探求心をくすぐるのであろう。すでに<コンペイトウ>という若手建築家グループ(元倉眞琴 松山巌 井出健)がデザインサーベイを行い「都市住宅」に独自な考現学的視点からその成果を発表していた(「アメ横は東京の村」(特集:フィールドワーク入門)「都市住宅」1971.12)。

 われわれの調査では、店舗は国鉄高架下のゾーンも含め391店あり、17の大小のブロックにゲリマンダーラスに派生した店舗集団(商店会)を統合するアメ横問屋街連合会が組織されていた。建築構造は3棟の耐火建築を除くと殆どが木造か簡易な鉄骨造で、中には大戦で墜落した米軍機のジュラルミン製の機体の残骸を骨組みにした建築物もあった。商店会や連合会の事務所は通路脇の狭いタラップのような急階段を上って行くと突然、屋根の上に秘密基地のようにして造られたバラックがあり、そこが商店会の事務所であった。階下の雑踏・喧噪の都市空間と対比して天空が広がる開放的で静寂な事務所空間のトポロジカルで意外性ある空間構造にいたく感激したものである。

 調査班は全店舗に個別調査票を配布し経営実態を把握した。アメ横問屋街連合会の構成店は大半が売り場面積が1坪から3坪程度の零細な小売店で個人経営の店舗が殆どで、中にはケース売りの店舗もあった。調査結果で驚いたことは坪効率年商1億円という数字がはじき出されたことである。なんと一日坪あたり25万円以上の売り上げがあると言うことである。通路を極端に狭め、売り場空間を最大限に活用し、経費を最小限に抑える前近代的とも言えるアメ横商法の販売方式のなせる技であろう。

 商業診断班は日本一の売り場効率を維持するアメ横商法を一定評価しながらも、店舗建築の老朽化、防災問題、都心商業機能の高度化などの観点からアメ横商店街を立体的に再開発すべきであるという指針を提示した。商業診断班は再会開発後の店舗イメージとして、新橋、渋谷、新宿などの駅前再開発の先行事例に依拠するしゃれた専門店街を想定していたようである。東京の都心駅前商店街の再開発と言えば東京の戦災復興事業を指揮した石川栄耀の手腕や事績がよく知られている。東京都はこうした成功事例をモデルとしていたのではあるまいか。「しぶちかの勝海舟」とも呼ばれた石川流の事業手法は戦後20余年を経た上野地区においてはもはや通用しなかった。

(5)連結的群的再開発の提案

 計画班では提示された診断班の方針を踏まえ建築計画の作業に取りかかった。アメ横の特性を生かす商業空間を探るために3つのモデルプランをつくり検討した。

街区一体型開発モデル
任意開発モデル
群的開発モデル

 一体開発モデルは台東区の構想案をベースにしたモデルである。露天商的商業機能を一つのビルに収めると、当然ながらデパートのような売り場構成の商業ビルとなる。近代的ではあるがアメ横の空間特性、商業特性とはおよそかけ離れた商業空間になってしまうのだ。任意開発モデルは個々のビルの独立性を確保するために街区の内部空間の連続性が損なわれてしまう。そこで提案した開発モデルは、縦に横に伸びる露天商街を構想した。街区をブロックごとに分節化し、合い隣り合う共同ビルが立体回廊を介して群的に立体的にかつ水平的に連結しうる開発モデルであった。

 この調査報告がアメ横問屋街連合会にどのように受け止められたか追跡調査を実施していないのでその詳細は定かではない。1982年(昭和57年)12月、アメ横センタービルが完成し、その後ブロックごとの共同ビルの建設が進むが、立体回路は実現しなかった。

 後年、建設省の建築防火プロジェクトでジャカルタの商業施設・「パサール」を調査したことがある。それは人工地盤に露天商を収容した2階建ての巨大商業施設でアメ横の数倍もある店舗規模を有したマーケットであった。それなりに賑わいがあり規模の迫力があったが違和感もあった。イスラム圏のバザールは露天商の自由空間、商業特区ともいえるが、近代化という合理思想により統制・整序されるととたんに都市空間がつまらなくなる。そんな見本を示したような商業施設であった。マーケットの魅力の要諦はオープンエアーとゲリマンダリー性、「やはり野におけ露天商」ということなのであろうか。

参照文献

・津田沼駅北口商店街再開発事業計画調査報告書〜駅前商店街開発計画と商業ビル基本設計の提案を焦点として〜第Ⅰ部:基本調査報告書 第Ⅱ部:計画案の提案 千葉県 1971.3.31
・地域計画手法の研究1ー計画理念と基本計画のすすめ方 : 津田沼駅前地区再開発計画に関連して : 都市計画 小泉、高野、小林、石田 1971年建築学会大会学術講演梗概集
・地域計画手法の研究II : (キィワードとキャラクターシートについて) 津田沼駅前地区計画に関連して : 都市計画 小泉、高野、松島、手島  1971年建築学会大会学術講演梗概集
・地域計画手法の研究・3 : 商業計画手法研究 (津田沼駅商店街再開発計画事例を通じて) : 都市計画 小泉、小林、石田1971年建築学会大会学術講演梗概集
・コンペイトウ(元倉眞琴 松山巌 井出健)「アメ横は東京の村」(特集:フィールドワーク入門)「都市住宅」1971.12
・『店舗レイアウトについての研究』中小企業振興事業団 昭和48年度

故・高野氏のメモ

財団法人日本中小企業指導センター 設立:昭和36年

1989年4月
社団法人商業施設技術団体連合会(商施連)が、業界統一資格「商業施設士」の資格認定法人となる。
村上末吉氏(第3第会長)、初代会長:清家清、二代目会長:芦原義信

財団法人日本中小企業指導センター 設立 昭和37年6月
中小企業振興事業団
…商店街の近代化には,1962年に商店街振興組合法,73年に中小小売商業振興法が制定され,その活性化がすすめられている。中小小売商業振興法は,商店街近代化を目的として店舗の共同化,アーケードの設置,舗道や駐車場など関連施設の整備を促進し,そのために中小企業振興事業団による高度化資金など有利な資金の利用を可能にしている。商店街の近代化には各種施設の充実ばかりでなく,共同広告,共同仕入れ,特売日の設定,祭や催事への積極的参加など消費者や地域住民へのサービスも必要である。…

●まちづくり余談:布団屋の意見を聞け

都市再開発法(1969)市街地再開発事業
防災建築街区促進法(1961)市街地改造法(1961)を一つにまとめたもの。
中高層のビルを建設、土地権利に関わる持ち分を権利床として割り当てる方式、権利変換方式よる
おおらかな牧歌的まちづくりというより不動産評価を基礎とした複雑高度な不動産事業
権利関係が輻輳した密集市街地の合意形成に至る道のり
土地の減歩と交換分合によると土地区画整理事業と土地評価を立体的床に換算する権利変換方式
地元商業者にとって経営戦略や生活設計の理想と現実の間には大きな隔たりがあったのではないか。
資本主義社会のメカニズム
商業地の立地ポテンシャル
容積制 香港化

効率性と冗長性 環境容量、キャパシティ、住宅の絶対不足、広域商業診断
土地区画整理事業 公共団体施工、商業調査、自動車交通量調査
都市再開発法、権利返還、住民合意のための資料づくり、都市の構想づくり、土地利用計画、共同ビル化決まっていた街区設計
船橋市、習志野市、新京成電鉄、サンポー、千葉県企業庁、荏原敏彦さん、柴田正

東京高等工芸専門学校(港区芝裏3丁目)→東京工業専門学校(戦中に改称)→空襲で焼失→松戸市岩瀬の陸軍工兵学校跡に移転千葉県松戸市岩瀬の陸軍工兵学校跡に移転→
新制千葉大学工芸学部(1951年4月、工学部に改組)千葉大工学部→1964年7月、西千葉キャンパス(千葉市稲毛区)に移転


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