マヌ50周年を迎えて その2
東京大学の博士課程に進んだ髙野は、生産技術研究所、本郷キャンパス、アトリエを構えたアパート「千駄木村」で、多様な価値観・感性に触れる豊かな青春時代を過ごします。
「街の在り様は人々の感性を育てるのだろう。」
(本稿は、2014年のマヌ都市建築研究所50周年にあたり故・髙野公男が書き溜めていた原稿をまとめたものです。)
(3)東大生産技術研究所
当時、星野研究室の所属する東大生産技術研究所(東大生研)は千葉市弥生町(現在の千葉大西千葉キャンパス)にあった。
前身は1942年(昭和17年)に設立された東大第二工学部、戦時体制下の技術者不足を見込んで設立されたものである。戦後、第二工学部は学生募集を停止し、昭和27年(1952)東大生産技術研究所として生まれ変わった。東大生研では5つの研究部門があり、航空工学の糸川英夫先生やロボット工学の森政弘先生、土木の耐震工学の岡本舜三先生などが活躍されていた。
星野研は土木・建築分野の第5部に所属していた。坪井善勝先生(建築構造設計)、渡辺要先生(建築環境計画)、関野克先生(建築史)、小野薫先生(建築構造)、勝田先生(建築環境工学)、池辺陽先生(建築設計)などの研究室があった。研究室や部門間の交流は盛んでアカデミックな本郷と比べて自由な気風があり、学生たちも専門領域を超えて親しくさせて頂いた。
池辺陽先生は実験住宅やモジュールの研究をされており、女子学生にも人気があった。林雅子さんや高橋公子さん、小沢紀美子さんなどの女性建築家、研究者を多く輩出されている。池辺先生はお酒が好きで朝からスピリッツの薫りのする赤ら顔の講義が印象的だった。
日本のネルヴィ(イタリアの構造設計家:コルビジェの構造設計を担当)を自負する坪井研では東京オリンピック代々木屋内体育館の構造設計の図面を手伝った。アルバイトであったが、川口衛さん(現:法政大学名誉教授)、八代さん、川俣さん、藤沼敏夫さんなどそうそうたるメンバーの構造設計チームの中でもまれ、技術者魂、技術観というものを学んだ。
近代建築史の研究に取り組んでいた当時助手の村松貞二郎さんには特にお世話になった。村松さんは設計の仕事を取ってくるのが上手で、親鳥が雛にえさを運んでくるように、設計志望の院生に小さな住宅やオフィスビルなどのクライアントをよく紹介してくれた(後にマヌを立ち上げてからしばらく出世払いの顧問になって頂いた)。
関野研には1年先輩の前野まさるさん(現:東京芸大名誉教授)や伊藤三千雄さん(元名城大学教授・故人)がおられた。前野さんは大陸的親分肌ですでにガキ大将的風格があった。関野研・後の村松研には加藤さんという古文書に精通した嘱託研究員がおられて、川柳の「柳樽」や「末摘花」などの艶のある江戸文化の解説をよくしてくれた。
東大生研時代は、生研そのものがスクールであった。今思うと理論と実践、専門性と総合性、先端性と歴史性、そして先輩達の人間性、いろいろな価値観、世界観を学び得たことは幸いだった。
生研は昭和37年(1962)に千葉市西千葉から東京・六本木(旧歩兵第三連隊兵舎)に移転、さらに平成14年(2002)六本木キャンパスから駒場キャンパス(目黒区)に移転している。現在、旧六本木キャンパスは国立新美術館(2007年開館)となっている。
(4)本郷キャンパス
本郷キャンパスでは、工学部一号館を拠点にして、同期の仲間たちの交流が盛んであった。建築学科の計画系研究室は丹下研(建築設計)、高山研(都市計画)、吉武研(建築計画)、内田研(建築構法)、太田研(建築史)などの研究室があり、それぞれの研究室では様々な研究・設計プロジェクトが展開されていた。
ゼミ活動も活発で学生相互の自主的な研究会も盛んであった。一期上には曽根幸一、宮脇壇、原広司、森村道美さんなどがおられ、同期では上杉啓、土田旭、香山寿夫、下山真司、鈴木美治、曽田忠宏、高井労、村上處直、若松孝旺、山本浩三君などの諸氏がいた。それぞれ個性的で一家言を持ち、その後独自の道を拓いていった仲間達である。その中でも原さんは若衆頭のような存在で、そのカリスマ的才気により学生チームによるサンパウロビエンナーレの国際コンペ応募作業を仕切っていた。
本郷の教授の先生方から直接指導を受ける機会は少なかったが、それでも仲間や助手の先生を通してその威光を肌身で感じることが多かった。丹下健三先生の講義では「力の流れの造形美学」というようなことを教わった。論理的ではなく謎めいた哲学的な講義だった。市浦健先生の講義も印象的だった。住宅団地の設計論だったと思うが、図面を拡げ失敗談を語る先生の木訥な語り口がおもしろかった。
東大生産技術研究所では工学技術分野の専門性と総合性が融和したスクールであったが、本郷キャンパスでは、建築技術と都市計画技術が融合したスクールであった。その後、都市工学科ができて建築部門と都市計画部門が切り離されることになるが、未分化の時代の方がトータルな環境デザインを学ぶことができたように思える。
(5)千駄木村の人々
昭和38年(1963)、京都国際会会館の設計競技が開催され、東大生産技術研究所大学院学生チームも応募しようということになった。メンバーは村上處直、水野可健、谷岡正男の諸君と高野の4人だった。
設計作業にはアトリエとなる部屋が必要なので、手分けして部屋探しを始めた。本郷・千駄木町に手頃な部屋があるというので早速下見に行き、気に入ったので即契約の手続きをした。それがわれわれ住人が「千駄木村」と呼んだ吉利荘であった。
東大医学部の先生が九州に転勤になったので、その屋敷を学生向きのアパートとして貸しだしていたものと聞いている。戦前に建てられた木造二階建ての屋敷で、シャンデリアのついた洋室を擁する和洋折衷の住宅であった。管理人は深須久江、貞夫姉弟。久江さんは都立駒場病院に勤める看護婦さん、貞夫さんは東工大付属高等工業専門学校の学生だった。
アパートには東大や早稲田などの学部学生や院生、助手の先生など多士済々の住人が入居していた。住人には森章二氏(東大理学部・分子生物学)や長柄行光君(早稲田文学部インド哲学・後にマヌの名付け親になる)、荒木道郎君(東大工学部応用化学)、川口君(東大・海洋生物学)、森本君(東大・経済学部)などの諸氏がいた。
森さんは手の器用な人で得意な手品で住人を楽しませてくれた。長柄氏はサンスクリットやインドの古典に精通し、「カーマ・スートラ」などの刺激的な仏教芸術などを紹介してくれた。
触媒の研究していた荒木氏はカメラ好きで住人たちのスナップ写真をよく撮ってくれた。当時は漫画文化の勃興期で、漫画雑誌「ガロ」や白土三平の「カムイ伝」など古本屋から大量に借だし回し読みしていた。
遊びの人類学、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」などの著作の購読、我々のアトリエはサロン化し、夜な夜なの酒盛りと議論の毎日で梁山泊のような様相を呈していた。昔でいう若衆宿、今でいうシェアハウスというべきか。後に高橋留美子の「めぞん一刻」(1980〜)というコミックが人気になるが、その17年前の本郷版といってもいい。知的好奇心と遊び心を触発するプライバシーは殆どない雑居型集住環境であった。
(6)千駄木町の界隈性
千駄木町は界隈性に富んだまちだった。本郷通りや忍ばず通りには都電が音を立てて走り、木造二階建ての商店が建ち並んでいた。店構えまで覚えているのは学生達がよく利用した食堂、パン屋、喫茶店、バー、貸本屋などである。殆どが個人商店なので人情も厚く、特に学生達には親切だった。まさに西岸良平が描く「三丁目の夕日」そのものの世界であった。
吉利荘の近くには森鴎外の居宅跡・観潮楼、夏目漱石が「吾輩は猫である」書いた屋敷(明治村に移築される)、路地を隔てた裏通りに、木下順二の「夕鶴」を演じた女優の山本安英さんが住んでおり、庭先の桜が見事だった。半径200メートル範囲に文学者や芸術家の居宅、そして学生宿が集積していた。
土田旭君や村上處直君、高井労君などもこの界隈に住み、われわれ「千駄木村」住人達との交流を深めていたのである。ちなみに土田君の下宿は、二階の踊り場を更に上がったその上の部屋(多分3階か)で、狭い急勾配のトポロジカルな階段が印象的だった。みんな古風で不思議な造りの家に住んでいたのである。
都市の近代化を目指す建築学徒には、ごく普通の古くさい街としか目に映らなかった。その後、1984年に森まゆみさん達が地域雑誌「谷根千」を発刊するが、地域の歴史やまちの文化を掘り起こし、普通の街の魅力に光を与えたのはまさに慧眼といわざるを得ない。
街の有り様は人々の感性を育てるのだろう。都市計画とは、道路や公園、建築物などの物的な施設を整備することを主眼とするだけではなく、まちが人を育むという視点も大事にしなければならないと思うようになった。
(つづく)
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