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トッド・ラングレンとの出会い / 時間に追われて(1989①)

*8/28、大幅加筆修正と写真追加しました。

*このエッセイはページ単体で¥200でも読めますが、¥3000でマガジン「ずっと、音だけを追いかけてきた」を購入していただくと連載の全ての記事を読むことが出来るのでおすすめです。
1989年(平成元年):1月7日に昭和天皇が崩御・平成が始まる / 手塚治虫 美空ひばりが死去 / 天安門事件勃発 / アメリカのジョージ・ブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ最高会議議長がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言(マルタ会談) / 任天堂「ゲームボーイ」日本で発売開始

1989年は昭和の終わりと共に始まった。前年暮れから井上陽水さんが出演していた車のCMの「お元気ですか〜」というセリフの音声が消されるなど、天皇陛下の容態に配慮して「自粛」するムードが続いていたが、とうとう「その時」がやってきた、という思いだった。

昭和天皇崩御の翌日か2日後、鈴木慶一さんが出演する新宿・日清パワーステーションでのイベントに僕もゲストで参加する予定だったが、天皇崩御に伴って首都高速が閉鎖されたりした影響もあって、イベントは中止になってしまった。平成が天皇陛下の生前退位によって明るいムードで令和に変わった30年後の今とは全く違う、暗い「喪中」の雰囲気だった。

そんな中、2ndアルバムの録音が始まった。今回はエンジニア・飯尾芳史さんに助言をもらいながらのセルフプロデュースで進めることになった。
そして、ビートニクス→1stのレコーディングに参加してもらった流れで、2月22日に先行発売された2ndシングル「Blue Period / カレンダー」は共同プロデューサーとして小林武史さんに手伝ってもらった。(武史さんは前年夏のサザンオールスターズ「みんなのうた」の編曲にも参加していた。ミスチルのプロデューサーとして大きく注目されたのは3年後の1992年)

一通りスタジオワークのイロハを覚えて、もう自分でなんとかできるだろう、と踏んでのセルフプロデュースへの挑戦だったが、創作の現場は思うよりも深くまだまだわからないことばかりで、思い通りの音はなかなか作れず、まして自分で自分を監督できるほど大人でもなかった。主観と客観を往復しながら、録音はじっくりと進んでいった。

*「カレンダー」の原型の歌詞。この後、武史さんのアイデアで、2番の後に「大サビ」と呼ばれるパートを新たに付け足す。武史さんプロデュースのミスチル作品を筆頭に、90年代以降のJ-POPには「大サビ」が欠かせないが、1989年のこの時点ではまだ「大サビ」のある曲は多くはなかったように思う。

そんな最中、担当ディレクターから笑顔でこんな連絡があった。「高野くん、トッド・ラングレン好きだよね?トッドのマネージメントオフィスから日本人のミュージシャンをプロデュースしてみたいっていう連絡が会社にあったけど、やってみる気はある?」

まさか、そんなことってあるのか?!と突然の成り行きに耳を疑った。こちらからオファーするならともかく(元々そんな発想など思いもよらなかったが)、今まで日本人をプロデュースしたことなどなかったトッドが、何故このタイミングで日本人を? 何が起きているのかわからなかった。

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