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【掌編】コンストラクション

 どこからか聞こえてくるチャイムの音で、正午の訪れを知る。
「休憩」
 残響が消えてから少しして、ボソリと声が聞こえる。首に巻いたタオルをほどいて、岸部は顔の汗を拭った。俺と北田はういっす、とやや力を込めた声で返事をする。岸部に手で促され先に足場を降りる。かんかんと鳴る金属の振動が昼間の静かな街に響く。俺たちは下まで降りてヘルメットを脱ぎ、ツールサックを外してむき出しのコンクリートに腰を下ろす。紺色のニッカポッカには乾いた木くずと石膏ボードの白い粉がこびりついている。俺はコンビニのビニール袋からサンドイッチを取り出し、透明なラッピングを破って頬張る。北田は弁当の蓋を取り外して割り箸を二つに分け、それが比較的うまく割れたというどうでもいいことを自慢してくる。目の前の電柱の上に留まったカラスが、首をかくかく回しながらこちらを見たり見なかったりしている。
「ほんであの姉ちゃん、どないなったん?」
 北田は弁当のからあげをくちゃくちゃと頬張りながら、興味があるのか無いのかわからない感じで俯いたまま訊いてくる。
「べつに、なんもないで」

 昨日の夜、ガールズバーで働く女と一緒に街を歩いた。
 ――死んだ目の店長でしょ[ゾンビみたいな男の動く画像]
 ――ひでえwww
 ――あいつ殺してあたしが店乗っ取りますから
 ――応援します!
 ――応援されます!
 二週間前に知り合ったばかりだが、可愛くてユーモアもあるのでマメに連絡を続けていたら、運良くチャンスに漕ぎ着けられた。だがいつだって運というものは長続きしない。女の手をとって岸に上がる代わりに、俺はボートの上に残ることにした。
 歳は二十四だと言ってたがおそらく十代だろう。嘘を付く女には少なくとも二通りのタイプがいて、それは嘘を付くときに恥の意識があるか無いかで分かれるのだが、夢華という源氏名の女は後者だった。ガールズバーで初めて会ったとき、二人きりになったタイミングで父親から二の腕にタバコを押し付けられたという風俗で働く女にありがちな昔話をしていたが、昨晩ノースリーブで現れた女は陶器のようにつるんとした腕をしていた。俺は何も訊かなかった。
「あたしスカウトされたことあるんですよ、おっさんキモかったからスルーしたんですけど」
「へえー、まあ可愛いもんな」
「あの子らには内緒で。すぐ嫉妬しよるねん」
「女は怖いからな」
「あたしはもっと怖いよ」
 俺は別に道徳的な人間じゃないし、他人に偉そうに言える立場でもない。
「飲んだなあ」
「頭いてー」
「つぎどうします?」
「そろそろ帰ろか」
 言う気もない。
「……もう一軒行こう」
「明日早いねん、やめとくわ」
 それに女は、もう回路が焼ききれているのだと思う。
「ふうん、ほんならまた」
「おう」
 いいとか悪いとかにたどり着くまでの、そのずっと手前で。

「LINEしとったやん」
「せやから、おもんなかったから止めたんやって」
 北田はわざとらしくため息を付いた。俺はたまごサンドを食べ終えてトマト&レタスにとりかかる。コンビニの野菜は見た目の新鮮さを保つために何度も薬で洗われるらしい。薬品漬けのレッド&グリーン。随分前にYoutubeでそのことを知ったが、いつからかまた忘れていた。なにもかも慣れてしまうのだ。
「可愛かったやん、もったいな。俺やったらとりあえず一発やっとくわ、性格とかどうでもええから」
「おまえは無理や無理」
 俺は笑いながら立ち上がり、すぐそばに無言で立つ自販機で冷えたドリンクを買う。ペットボトルのキャップを回してリングからちぎり取る。スポーツドリンクという名の五百ミリリットルの砂糖水。飲み干すまでの間に首を滴る汗になって、蝉の声と一緒に蒸発して消えていく。
「ずるいわー、お前ばっかりやんけモテんの、イケメンはええのお」
 北田は口ではそう言うものの本心から羨ましがったり妬んでいる様子はない。最初から諦めている。受け入れたくないことを受け入れざるを得ない局面をあまりに多く生きてきたせいで諦めが体に染み付いてしまっている。たぶんこの先も取れることがない。自分の人生はまあこんなもので、このさきも大したことは起きないし、何かを変えるために前向きな努力をするつもりもいまのところはなくて、大きな目的もなく、失望もなく、なんとなく生きていくのだ。ときどき嫌になって現場を飛んだり、また拾われたり、誰かを助けたり、誰かの腕を振り払ったりしながら。
「顔ちゃうで、ここやここ」
 とんとんと眉間を指差しながら、やっぱりやっときゃよかったかな、という思いが脳裏にうごめく。スタイルも良かったし、話も面白いし、慣れてる風だったし、雰囲気は良かったから、結構いい感じになったと思う。
「斎藤なんか難しいこと知っとんもんなあ、高卒のくせになあ、しかも夜間」
「お前とか中卒やんけ」
 スマホを見る。あと七分で休憩時間が終わる。学生時代、授業中に飯を食ったり、センコーなんて糞扱いだったのに、いまはちゃんとルールを守って、岸部の言うことは漏らさず聴いてる。俺が変わったのではなく、岸部が俺たちと同じ足場の上を歩いているからだ。その背中には意味がある。
「ふうー」
 北田が先に腰を上げる。ツールサックを付け直し、首を回す。そしてもう一度息を吐く。ヘルメットを被り、かんかんと音を鳴らして滑り止めの突起が付いたスティールの足場を上っていく。その姿はいつも、剣道の試合に臨むときの仲間の姿を思い出させる。小学生の時分、俺もまだなにかを信じていた。
 準備を整えて北田の後ろに続く。ふと振り向いたとき、電柱のカラスは既に姿を消していた。午後も俺たちは、街の連中には雑音にしか聞こえない音を絶え間なく鳴らして作業を続ける。安全第一、ご迷惑おかけします。街の人間が無視している世界で、街を作る。だが俺も同じだ。俺もあの女を無視している。見たくないからだ。あの女は俺も見たくないような闇を抱えている。この街が俺たちを、目を閉じたまま抱えているのと同じように。


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