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【掌編】scapegoat

 午前七時五十分、独房のドアが開く。
「今日はいい天気だね」
 男は言った。外では梅雨の雨が降り続いている。職員の一人がちら、と私に目配せをする。私は表情を固めたままじっと彼を見返す。彼はすぐに諦めて視線を逸らす。
 つるつるとしたリノリウムの床を革製の靴底が叩く。硬くて冷たい無機質な音が廊下いっぱいに広がる。コツン、コツン、カツン、コツン。男は何も抵抗せず、粛々と連行されて刑場へと向かう。他の囚人たちはまるで意識を失ったかのように静かにしている。彼らにとって、すぐ目の前をあるき過ぎていく影はただの他人ではなく、明日の我が身だ。私は不意に、祖父の墓参りを思い浮かべた。傘を差し、線香をあげる父と母、兄弟、私。傘を打つ雨粒の音。黒く濡れた墓石と石畳。各々胸中の思い。降りしきる雨。
 廊下の角を折れて、階段を登る。男は何も言わない。私たちも何も言わない。静かで、いつもと同じ場所にいるのに全くべつの場所にいるような非現実的な感じがした。まだ半分夢を見ているような心地だった。
 男とは幾度となく話をした。五年前に私が配属されてきたとき、男は既に五年間、ここでの生活を続けていた。何がきっかけだったのか忘れたが、男の家族や、私の家族についても二人で話をした。孤独と裏切りが、男の半生を常に暗い影で包み込んでいた。父親は借金苦から自殺し、母親は酒瓶を片手に毎日彼を蹴り飛ばした。お前なんか生まれてこなきゃよかったんだ、と彼女は言った。俺なんか生まれてこなきゃよかったんだな、と男は私に言った。人付き合いが苦手で同窓からはいじめられ、特に思い当たる節もなく担任教師に疎まれた。中卒後、同じ建設会社で下働きしていた親友に騙されて多額の借金を抱え、各地を転々としながら街の影で生きるようになった。平凡な人生を歩んできた私にとってはまるで映画かドラマ、テレビドキュメンタリーでしか聞いたことのない殺伐とした世界だった。
 私は小さく首をふり、会話の記憶が蘇ってくるのを制した。この男は十余年前の夏、軽井沢の観光地に遊びに来ていた家族四人の命を奪った。崖から突き落としたのだ。一人はまだ右も左も知らない幼児だった。同情の余地などない。

 所長が神妙な面持ちで別れの言葉を告げる間も、男はただアルカイックな笑みを浮かべていた。

 最後のときが迫る。男は教誨を断ったが、前室に入ると祭壇の前に跪いた。そしてしばらくの間、両手を合わせて声のない祈りを捧げていた。やがてすっくと立ち上がると、何人もの刑務官の中から、私を見つけた。
「ねえ」
 私はびくり、と身体が震えるのを感じた。
「何だ」
 男はもう笑ってはいなかった。
 もし、男と同じ土地に生まれ、同じ家で育ち、同じ遺伝情報を抱えて生きていたとしたら。私はいま、相対する男の側に立っていただろうか。
「あんたと話せてよかったよ」
 私はつばを飲み込んで、まだ男から目を離さないようにした。そのわずか数瞬に、酷く永い時間が流れた。私と男の目と目は釘で打ち付けられたようにしっかりと結ばれていた。彼の瞳に、私自身の姿が映し出されているのが見えた。
 職員のひとりが私の名を呼び、自然、視線がずれた。私はホッとして、自分が少しの間息を止めていたことを知った。
「ああ」
 そう言ったが、声が裏返ってしまう。男はぐにゃあ、と、笑っているのか泣いているのかわからない顔を作った。いびつなシュールレアリスムの絵を見ているようだった。彼は間もなく後ろ手に手錠をかけられ、目隠しをされた。
「あんたが押すのかい」
 私は応えない。いくぞ、と仲間が男を連れて行く。
「さいなら」

 私はまだなにか言わなくてはならないと感じたが、言葉は出てこなかった。思わず謝りそうになるのを堪え、黙って頷く。だが男にはもう見えていない。カーテンが開き、執行室の縄と、踏み台の赤い四角形が目に入る。ガラスの向こうの立ち合い室には誰も来ていなかった。
 男の首に縄がかけられるのを横目に、私たちは隣室へと移動する。視界の端で、男の脚が震えているような気がした。その瞬間、恐ろしい考えが脳裏に浮かんだ。
 
 本当に殺したのか?

 閉じられたカーテンの向こう側に、男の息遣いを感じる。頭の中がぐちゃぐちゃになってくる。横の職員と目が合う。私はすぐに目を逸らす。動悸がとまらない。 
 合図が出る。私は並んだ職員たちと一緒に、息を殺し目を閉じて、ボタンを押した。

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