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【掌編】Over the head

「ときには背伸びをしてみることだ。そして気に食わない誰かに、その情けない姿を見られて笑われてみることだ。それであんたは、いくらかましになる。何年か経てば、すっかりまともになっているよ」
 セイルズはそう言って、大道芸人がステッキを振り回すみたいにして煙管をくるくると回し、机の上でステップを踏んだ。
「気が進まないね」
 私はそう言った。ろくでもない言葉だと自分でも思ったが、あいにく、私の声帯はいつも私の意思に先んじて振動を始めるのだ。
「ま、そうだろう」とセイルズは言った。
「そう簡単に足が動くなら、はじめっから苦労してないよな」
 彼の言うとおりなのだ。だが私はもう五十の男で、いまさら人前で恥を晒すような真似はできない。
「何が怖いんだ」とセイルズ。
 私はジン・ソーダを一口のみ、息を吐いた。
「凡庸な人生だった。だけど俺にしては上出来だよ。これで十分さ」
 私は言った。セイルズはうん、と小さく、だが確信を込めた感じで頷いた。窓の外では夜が、漆黒の闇をいつまでも振り下ろせずにいた。この街は明るすぎるのだ。
「父上の築いた小さな商社を、潰れることなくここまで成長させた。君はたしかに立派な経営者だよ」
「そのとおり。まあでもあとを継いだだけさ、俺は。それに親父と同じで、立派な家庭人じゃなかった」
 セイルズは虚ろな目を下に向け、首を横に振った。
「何事にも限界がある。要は限界の選び方だよ」
 私は唇の右端を引いて不敵に見えるだろう笑みを作った。だが首は縦にも横にも振らなかった。目を閉じて大きく息を吸い、吐いた。執務室の時が一瞬止まり、見えない歯車の位置がいくつか入れ替わり、また音もなく動き出した。
「宗太郎君」
「息子が……」
 私とセイルズは同時に口を開き、沈黙の中で互いを見つめ合ったあと、笑った。悪くない夜だ。そう思えた。
「俺のせいでもあるんだ」
でも?」セイルズは悪戯っぽく、実に意地悪そうに問い返してきた。
「そんなだと世間から袋叩きだぜ、ボス」
 私は赤べこのようにして何度も頷いた。
「わかってる。だからTwitterはやらないんだ。FacebookもInstagramもね。俺は古い人間なんだよ。女は家庭を守り、男はそれを守るために働く、そういう時代の人間なんだ」
「彼女は納得してた?」
 私はこめかみを抑えた。たぶん眉間には幾筋もの皺が、老いた樹の乾いた樹皮のようにして、頑なな線を描いている。
「わからないな。俺がどういう男かということは知っていたはずだよ」
「でもあんた約束したじゃないか、言ったろ、俺はそこらの男とは違う、君を不幸にはしない、ってさ」
 私は黒い革張りのオフィス・チェアに深く身をうずめた。ぎい、というスプリングのたわむ音。セイルズはゴルフ・クラブをそうするようにして煙管をぶんぶんと振り回した。嫌味のこもった、ナイス・スイング。
「遊んでたわけじゃない。仕事だ」
「浮気もせず、殊勝なことだ」セイルズは首を振った。
「でもさ、それってポリシーの押しつけなんじゃないのか? あんたがやってきたことは、本当に望まれていたことなのか」
「妻は……」
「あんた自身にとってもさ」
 私は黙り、セイルズが振り回していた煙管をそっと取り上げた。中央の引き出しから包みとライターを取り出す。パッケージには大きく宝船、と書かれている。希少な海外製や刻み煙草も試したが、結局は廉価で扱いやすいシャグに落ち着いた。元来、ものぐさなのだ。
「あんたは努力してきた。誰より働いて、誰より真面目で、百パーセントの力で頑張ってきた。まったくよくやったと思うよ」
「でも足りなかった」と私は言った。
 開いた包の上には、土色の綿のような、細く刻まれた煙草の葉が広がっている。それが何か知らなければ小さな機械部品の緩衝材のようにも見えるし、干し草のミニチュアのようでもある。私はそこからひとつまみを拾い上げ、指の先で優しく丸めて火皿の穴に軽く押し込んだ。プレイボーイのロゴが刻まれたジッポライターで火を付ける。煙を吸い、口腔を満たさせ、ゆっくりと吐き出す。あたりを漂う紫煙で、セイルズの姿が少しだけ薄らぐ。
「それらしくなろうとやってみても、いつも失敗するんだ。俺には生まれつき損なわれているものがあるのさ」
「なんだい、それは」
「君はよく知っているだろう」
 セイルズはしばらく私の目を見つめたあと、小さく何度か頷き、いつもそうするようにしてガラスシェードの下に腰を下ろした。瀟洒なデザインだが、あまり実用的ではないテーブルランプ。執務室の名を冠している割に、実際の執務には役に立たないものが多い。視察の名目で自ら世界を飛び回り、探し集めた世界中のガラクタたち。南米産の木彫りの置物、哲学的形状の金属製インテリア、絶滅した小動物たちの剥製、象牙や珊瑚、翡翠の彫刻、作者不詳のオブジェたち。壁の本棚にはどうにも偉そうな背表紙の、様々な言語で書かれた分厚い本が並んでいる。ラテン語の本まであるが、もはやただの飾りだ。全部で二千冊近くある。だがまだ十分の一だって読み終えていない。ほとんど趣味部屋みたいになっているが、この部屋に出入りするのは社内でも最上級クラスの役員たちだけだから、見咎められるようなこともない。そして実のところ、ここは趣味部屋ですらない。
「過ぎたことは忘れろよ」
君が思い出させるんだ」
 なんだか気まずくなってきた。いつもそうだ。私は差し出された手をはねのける。毎回すぐに後悔するが、その時間も、強度も、もう随分と薄まってしまった。円環を閉じ、その中だけで物事をこなすというスタイルにすっかり慣れてしまったのだ。スタイル。父親の人生をなぞること。
 私が七つの時に母は癌で亡くなった。二十万人に一人というやたらに珍しい種類の癌で、大方の珍しい種類の病がそうであるように有効な治療方法などなく、時の侵食を食い止めるすべは何もなかった。母はまだ三十八歳だった。私には兄弟もいない。
 そうした中で、父の影響を受けずに育つというのは困難なことだった。私は反抗し、反抗を通して依存し続けた。私には頼れるものが他になかった。なにひとつなかったのだ。それでも私は自分の足で立ち、歩くべきだったのかもしれない。誰が教えてくれなくても、誰が示してくれなくても。
「背伸びね」
 煙管を灰皿に預けて立ち上がり、私は部屋の中をぐるりと一周した。一歩一歩の靴音をしっかりと耳に記憶させるようにして、ひどく時間をかけて。染み付いた匂いと光、有象無象の過去が私を取り囲んでいた。過去は沈黙の中から、私という現在を見定めようとしているようだった。窓外では、夜は相変わらず街の光に惑わされたままでいた。最初の膜を破ることができず、虚空の中にゆらめき、佇んでいる。

 私は部屋の中央で歩を止め、デスクの後ろ側をゆっくりと見上げた。壁の上部には立派な額がかかっていて、そこには短い言葉が刻まれていた。

 Cool head but warm heart
 
 価値のある言葉は時代の波を生き残る。アルフレッド・マーシャル。言葉がそうして価値を保ち続けられるのは、それがいつの世でも正しく、同時に実現困難なものだからだ。冷静な思考、燃えやまぬ心。

 席に戻ると、セイルズはもう目を閉じていた。眠ってしまったようだ。私はいま一度、オフィス・チェアに深く腰を沈めた。ぎい、というスプリングの軋む音。煙管を咥え、ゆっくりと煙を吸い込む。息ができなくなるまで口の中に溜め込み、同じだけの時間をかけて吐き出す。深呼吸するみたいに。父との記憶がやにわに浮かんで、消えた。
 火皿を下に向けてとんとんと雁首を叩き、灰皿の中に火種を落とす。それから先端部を湿らせた布でくるみ、息を吹きかけて残った灰を押し出す。息子のことを考える。妻のことを考える。答えは出ない。だが思考を止めてはならないのだ。答えは見つからないかもしれない。永遠に。それでも。

 灰皿の中ではまだ消えきらない火が、ちりちりと赤く燃え続けている。

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