見出し画像

【掌編】精神科医

 心配なんですよ、と男は言った。
「エレベーターが故障しているかも知れないでしょう」
 隣の妻はうんざりした顔で首を横に振った。
「一度でもある? 私が閉じ込められたなんてことが?」
「可能性があるというだけで十分なんだよ」
 男はマリアナ海溝のように深いため息をついた。
「お気持はわかりますよ」
 精神科医の女は言った。前髪を分けたブラウンのショートヘア。ぱっちりとした大きな瞳、やや濃い目の化粧。
「心配性というのは愛情の裏返しでもあるんです」
「重すぎます」
 妻はうざったそうにして前髪の半分を耳にかける。邪魔ならまとめるか、最初からよけておけばいいのに、と精神科医の女は思う。
「昔からですかね?」
 男はじっと精神科医の女の目を見る。覗き込むようにしばらくじっとしているが、瞳に映っているのがただの自分の影だとわかってげんなりする。
「ええ」
「なにか発端になった出来事とか、記憶はありますか?」
「なにも。一番古い記憶のひとつが、救急車と一緒に車で病院に出かけていく母の姿なんですけど、なんのことはなくて、高齢のお隣さんが運ばれていくのに付き添って行っただけなんですが、僕は半狂乱になって泣きわめいていたらしいんです。もう年長組だったんですけど。手がつけられなかったと父は言いました。生まれつきですよ」
 精神科医の女は頷きながらカルテに目を下ろす。視線は男の職業欄に向けられている。夜間警備員。非正規雇用。
「なんでもいいからお薬出してもらえません? 八階まで階段で登れとか、この人仕事中にもLINE送りまくってきて、ほんの十分でも出られないと通話入れてくるしで。私のストレスも限界で」
 白衣の襟を見ながらこの女はあまり役に立ちそうにないな、と妻は思う。医者のくせに化粧が濃すぎるし、匂いもきつい。患者を見るのじゃなく、自分を見せるためにこの仕事をしてるんじゃないか。
「一時的に症状を和らげることはできます。不安や緊張、不眠などはベンゾジアゼピン系の抗不安薬を用いることで速やかな改善が期待できます。ただ身体依存を伴うものですので、長期の服用はおすすめできません。やはり根本的な治療を行っていく必要があります」
「根本的な治療」
 男は精神科医の言葉をなぞるようにつぶやいた。それから妻を見、妻が目を合わせないことがわかると、ゆっくりと正面を向き直した。
「思い当たるフシがないんですよ。なにも。さっきも言いましたけど。昔からそうなんです。ささいなことが気になります。鍵っ子だったんですが、一日中後ろポケットに手を入れて探ってましたし――おかげで目を瞑ったまま自分の家の鍵かどうか当てられるようになりましたよ――、何かの拍子にいつもと違うポケットに入れてたりして見つからなかったら、もうパニックです。忘れ物がないかランドセルの中身を開けては閉め開けては閉めして、気がついたら集団登校の集合時間ぎりぎりになってたり。そのうちかばんから物を出すのをやめて、毎日全ての教科を詰め込むようになりました。重たかったですよ。身長が伸びなかったのはそのせいだと思ってます」
「義祖父さんの遺伝でしょ、身長は」
「ああ、隔世遺伝な」
 夫婦漫才がはじまったぞ、と内心に茶々を入れながら、強迫性障害の可能性、とメモを加える。先月別れた彼氏のことが精神科医の女の脳裏をめぐる。もう二十七になってしまった、結婚目前だったのに、五年間を棒に振ってしまった、これ以上無駄な時間をかけるわけにはいかない。
「まずは心のバランスを取ることが肝要です」
「バランス」と今度は妻のほうが復唱する。
「はい」と精神科医の女が応える。
「過不足のない健康な食生活と、十分な睡眠、なるべくストレスを溜め込まず、できれば集中して取り組めるような趣味を持つこと。それから夜間警備のお仕事をされているということで、難しいかとは思いますが、もし可能であれば転職など視野に入れては」
「えっ」と男。なんでちょっと嬉しそうな顔をしているんだ、と精神科医の女は胸中に毒づく。
「この人、見ての通り人付き合いが苦手で、他の仕事だと全然決まらないんですよ」
「少しの間、お仕事をお休みされるというのは難しいですか?」
 こんな男のどこに惚れたんだろう。
「それで良くなるんですか?」
 結局私が食わせていくのね。
「健全な生活を続け、心身の回復に務めるということが最良の治療薬です」
 男なんて。
「ふーん」
「でも人手不足だし、急に辞めると」
 男はもごもごと心にもないことを言っている、と精神科医の女と男の妻は思う。男は既に一日中家で過ごす時間の使い方について妄想を始めている。
「大丈夫よ、夜間警備くらい。人を探すのは彼らの仕事なんだから」
「うーん」
 これ以上私の時間を奪わないでくれ、と精神科医の女は心の浅瀬で唾を吐く。
「治療には時間がかかるかもしれませんが、焦ってはいけません。じっくりと腰を据えて取り組めば、必ず症状は改善していきますよ」

 窓の外、夏の午前の光に照らされた梢の緑の間を、チチチと鳴く二羽の小鳥が飛び過ぎていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?