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【掌編】羊の群れ

 実に羊的な羊だった。あるいは概念そのもの、という気がした。この非現実的な光景がそうした認識を私に与えたのかもしれない。ぼんやりとした光が幾重にも重なった透明なカーテンのようにして視界の全体を覆っていた。私たちは羊飼いに連れられて行儀よく歩く羊たちのようにして、その羊に連れられて皆で仲良く丘の上を行進していた。どこまでも続くなだらかな丘には、午睡を楽しむ老婆の寝息のような、とてもおだやかな風と時間が流れていた。
 私は右を見、次に左を見、また右を見て、それから諦めてまた正面を見た。人々。あらゆる職業の人間がここに集まっていた。少なくとも私にはそのように見えた。あるものはスーツを着ているし、あるものは工場で検品をするときに身につけるような白い衣装を纏ってマスクをしていた。あるものはコックのように見えたし、あるものは俳優、あるものはサッカー選手、ある男は車掌の格好をしていたし、アパレル系っぽいメイク&ファッションの女性、医療従事者、林業だか鉱山で働く労働者に見える男。数え上げればきりがない。とにかく、何らの共通点もなさそうな人間たちが、どういう理由だかここに集まっているのだ。まるでなにかの見本市みたいに。
 羊は私のすぐ近く、だいたい二メートル先くらいの場所に居た。彼は黙々と先陣を切って、我々をどこだかに導いていた。私は羊の品種に詳しいわけではないから、その羊がなんという種類の羊なのかは定かではなかった。肌は白いので、少なくともサフォークではない。でもメリノーなのかコリデールなのかは判然としない。私にはどちらも同じに見える。もしくはそのどちらでもないのかもしれない。とにかくは羊だ。
 丘陵を埋め尽くす黄緑色の草が微風にそよぎ、見えない風に形を与えていた。平和。人々にはおよそ表情と呼べるようなものがなかった。何にも無関心で、無感覚。何も感じていないし、考えてもいないように見えた。だが私にしても同じようなものかもしれない。私は右を見、左を見た。近くを歩く主婦っぽい中年の女性を見、遠くを行く幸薄そうな翁を見た。私はすぐ横の、よれたスーツを着た初老の男に向かって声をかけた。
「あのう」
 男は返事をせず、こちらを振り返りもせずに黙々と歩みを続けた。私はもう一度声をかけたが、やはり返事もなければ反応もなかった。私は諦めて再び前を向いた。白んだ空が見える。わずかな雲が浮かんでいる。丘の斜面がなだらかになり、やがて平坦になると、さらに遠くの景色が見えた。波打つ草地が、高くなったり低くなったりしながら、どこまでも際限なく続いていた。やがて我々は下り坂に差し掛かった。羊は迷うことなく、坂をまっすぐに進んでいく。羊の進路に合わせて、我々も坂を下っていく。遠くからだと、モザイク模様の巨大な布切れが角を引っ張られ、地面を這ってゆっくりと進んでいるように見えるかもしれない。
 私はふと目を瞬いた。何かを思い出しそうになったのだ。でもそうした感覚は一瞬のもので、すぐにまた、ふわふわとした綿のような概念が、意識の隙間を埋めてしまった。そうなるともう、何を考えるのも面倒になってしまう。視界がさらに曖昧になり、頭がぼおっとしてきて、意識が徐々に薄れ始めると、やがて途切れた。

 メェエエエ。

 気がつくと、私はどこだかの平べったい小屋の正面に立っていた。小屋、と言っても、普通に人が住むようなサイズ感ではない。羊は小屋の入り口らしき巨大な四角い空洞の前で、こちらを向いて屹然と立っていた。意識の焦点が定まってくるに連れ、ようやく目の前の小屋が畜舎なのだということがわかった。あたりは夕日のオレンジ色に包まれていて、さっきまでよりも、視界は随分はっきりとしていた。わずかな肌寒さとともに、私はなんだか嫌な予感がした。

 メェエエエ。

 もう一度鳴くと、羊はすっく、と突然その場に立ち上がった。二本足で。私は驚いて後ずさり、右を見て、左を見た。心臓の軋む音が聞こえた気がした。
 人々。それぞれを特徴づけていた衣服は綺麗に折りたたまれ、細いロープで背中に巻き付けられていた。彼らは皆、羊の姿をしていた。

「ねえ、君」

 私はびくりとして前を向いた。羊はいつの間にかクリーム色の作業服を着て藍色のバインダーを持ち、右手にはペンを握りしめていた。羊の被り物をした男のように見えた。
 私は恐ろしくなり、周りを占めている羊たちの合間を縫って、群れの外に飛び出した。羊たちはメエメエと鳴き続けていた。何も感じず、何も考えていないみたいに。抜け出た勢いで尻餅をついたが、反射的に立ち上がった。我ながら大した身のこなしだ。動悸が恐ろしく速まっている。頭蓋の内側で血液が脈打っているのがわかる。すぐ側に針葉樹の深い森が見えた。私は羊人間を凝視したまま後ずさり、徐に体を反転して森へ向けて一目散に走った。
「追え」
 少しして羊人間の低い声が聞こえた。走りながら振り返ると、二匹の獰猛そうな黒犬が小屋の裏側から私めがけて飛び出してきた。私は必死で走ったが犬たちは信じられない速度で追いついてきた。私が全力で三メートル進む間に、犬たちは十メートルは移動している。到底、逃げられない。もうダメだと思ったとき、腰が砕けたように足の力が抜けた。私は森が始まる最初の木々を抜けた泥土の上に、滑り込むようにして倒れた。
 溺れた男が水面から顔を出すみたいにして私は勢いよく体を起こした。犬の吠え声がすぐ近くに聞こえる。噛まれる、殺される。両腕で目の前にエックスの字をつくる。無駄な抵抗でも本能がそうさせるのだ。だがしばらくしても私の二本の腕はそこにそのままの格好で浮いていた。食いちぎられることなく。二匹の犬は森の入口で低く唸りながら、私の方を睨みつけその場にじっと立ち尽くしていた。凶悪な牙の間から白い糸のようなよだれがだらりと垂れて草地に消える。私は息を整えながら犬どもをじっと見た後、小さくなった遠くの羊人間に視線を移した。そいつはもはや羊人間ではなかった。
 人間の体、人間の服、そして人間の顔をしていた。よく見ると見覚えのある顔をしていた。私は目を疑った。彼はある著名な人物の顔をしていた。誰もが知っている、毎日のようにTVやYoutube、Yahooニュースを賑わせている男。私はつばを飲んだ。だが男が横を向くと、その顔はまた別の人物に変わった。しかし彼もまた、世間で有名なインフルエンサーの一人だった。男は私が瞬きをするたびにその顔を変えたが、どれも名の知れた、普段から目にする、目にせずには居られない人間たちの顔だった。頭が変になりそうだった。
 二匹の犬はしばらく私を睨んでいたが、男が声をかけるとしぶしぶ後ずさり、もう一度命令されると急ぎ走り去っていった。私は男を見た。男も私を見ていた。我々は一分近くも互いの顔を見続けていた。やがて男は不意に視線を逸らすと、羊たちを従えて畜舎の中へと消えていった。風が吹き、私のうなじを撫でた。先までと比べると、風は少しく冷たくなっていた。後ろを向くと、巨大な木々がどこまでも遠く連なっているのが見えた。奥へ行くに連れ、森は急激に暗くなっていった。鳥と、虫たちの鳴き声が聞こえる。
 
 メェエエエ、メェエエエ。

 私はもう一度畜舎の側を振り返った。何十匹もの羊たちが、思い思いの鳴き声を上げながら小屋の中へと進んでいく。忠実な歩み。背中の衣類がなければ、もはや羊たちを区別することは不可能だった。私は大きく息を吸い、吐いた。私はここにやってくる前のことを思い出そうとした。だが考えようとすると頭が痛んだ。記憶の断片は勝手に浮かび上がってくる。だが順序立てて思い出そうとすると駄目だった。私は諦めて首を振った。
 私は羊たちの群れに背を向け、森の奥を見た。ここがどこなのか、どこへ行けばいいのかもわからないが、夜だけは確実に近づいてくる。私はどこかへ行かなければならない。いまは安全でも、明日の朝までここで無事に過ごせるとは限らないのだ。ここには電灯もなければ、火をおこす道具もない。彼らはなぜだかこちらにはやってこれない様子だが、それにしてもいつまでのことかわからない。森には森の、別の危険だってあるかも知れない。高地の天気は変わりやすい。着替えがなく乾かす手段もないまま雨に打たれれば風邪を引くだろう。見たところ近くに医療施設があるようにも思えないし、あったとしても私を治療してくれるかどうかわからない。日が暮れるまでにはまだ時間がある。屋根のある場所、洞窟でもなんでもいい。とにかくここより安全だと思える場所に移動しなくては。随分と意識がはっきりとしてきた。なんだかひどく永い間、夢を見ていたような気がする。
 私は一歩、森の奥に向かって足を差し出した。柔らかな土の感触。重なった枯れ葉の合間で小枝が折れる音。数ミリサイズの小さな黒い甲虫が足元を歩き過ぎて行った。
 私は目を閉じ、大きく深呼吸をしたあとで、またゆっくりと開いた。それから一歩ずつ、森の奥へ向けて歩き始めた。
 
 

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