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【掌編】美しき腐敗

 
 ライオネル長官は冷凍された551の豚まんが上から覗き込まれたときのような顔を作って涙を流した。
「なんだこれは」
「これがですね……」
 下士官はバインダーに挟んだ資料をパラパラとめくった。
「ウメボシ、という、この国のドライフルーツにございます」
 ライオネル長官は忌むような目で手に持った梅干しを睨んだ。予期せず十年来の宿敵に出会った、とでもいうような面差しだ。
「もう少し普通のものはないのか」
「お待ちください、間もなく」
 下士官は和服を着た給仕の女を呼び出してまともなものを持ってこい、とこれみよがしに叫んだ。
 言葉通りすぐに新たな品が届けられた。ライオネル長官は笑みもなく包みを開いた。
「豆か。珍しくもない」
「なんでも健康に効くとか。長官、最近は葉巻のやりすぎ……失礼、お好きなことですし、ご自愛いただければと」
 ライオネル長官はスプーンに一盛り、豆をすくった。つぼの端から複数の糸が引いて名残惜しそうにして藁苞(わらづと)へと伸びた。
「うわ。まてこれは腐ってるぞ」
 下士官が給仕を睨み付けた。そそそ、と慎ましやかな足取りで女が近づいてきて下士官に何やらを述べた。下士官は何度か眉をピクピクさせた後、バインダーのページを繰って目的の情報を見つけ、うんうんと難しそうな顔で頷いた。
「長官、こちらはいわゆる……チーズのようなもので、つまり発酵しておりまして、このように見た目にはいささか怪しげなものですが、味わい深く内臓にも良好、つとに有名な珍味というわけで」
「においも酷い。おまえ、まずは食ってみろ」
「何をです?」
「何って、こいつに決まってるだろ、このネバネバ」
「そんな勿体のうございますよ。こちら貴重なものでして、なかなか手に入りません故」
 そう言うが早く射るようにして給仕を見た。女は大きな瞳を丸くして、からくり人形のごとくに首をかくかくと前後して応じた。
「ここにこうしてたっぷりあるんだから遠慮はいらん。つべこべ言わずに食え」
 下士官は、いざ龍の巣へと乗り込まん、とでもいうような青白い顔になり光沢するウォールナット・テーブルの上に盛られた腐食豆の一群を見た。つばを飲み込みながらちらりと給仕を一瞥したが、女は大窓の側に顔を向けていたのでただ静謐なうなじの見えるだけだった。
「私はその、万事健康体ですので」
「貴様、食いたくないんだろう」
「女、あの給仕に食わせましょう。ひょっとして毒が無いとも限りませんしね……」
「おまえ、毒物かも知れんだと?」
「いえいえ、あくまで可能性の話でございます。零点一パーセント、いや、それ以下かも。しかし私め、最後の時まで長官のお側に仕えさせていただくこと内心神に誓っております。ですからしていかなる脆弱な可能性であろうとも、吟味するべき事由となるわけにございます」
 毒の可能性のあるものをこの私に食わせようとしたのかと口角泡飛ばすライオネル長官の言を遮って下士官は大声で給仕を呼びつけるとさあこれを食え、と怒鳴った。
「おまえが持ってきたんだからな、責任を取ってもらうぞ」
 女は畏まりました、と潔く応え、失礼します、と言って胸元より細長い二本の棒を取り出した。ライオネル長官が何を始める気だと眉間に不安を露わにしたので下士官はすかさず女を咎めた。
「こら、何だそれは、急に妙なものを持ち出して、よこせ」
 女がそれを食事のために用いる道具なのだとしばし説明したのち、箸はどうにか無事に女の手へと戻った。
 女は気を取り直して箸を構え直し、もう一方の手で藁苞をつかんだ。ライオネル長官は何かグロテスクな儀式でも見せられているみたいに表情を固くし、下士官も無意識のうちに右手で口元を覆っていた。
 女は藁苞を傾け、箸で掻き出すようにして豆どもの一部を別皿へと盛り直した。
 ライオネル長官の唾を飲み込む音が下士官の耳にも届く。連動するようにして下士官の喉が音を鳴らす。次の瞬間、女の美しい目がかっと開き、左手が深皿をわずかに傾けて支え、右手が箸を斜め約60度角に維持したままゆっくりと円を描き始めた。
 箸の回転とそれに誘われるように糸を引きながらぞろぞろと移動する豆の群れを、男どもに備わった累計四つの目がくるくると追う。
 徐々に増していく速度に合わせて、下士官らの追跡も勢いづいていく。右、左、右、左、右、左、右、ハイ!
 最後に女が箸を抜き出したとき、二人の男はただ口をぽかんと開け、いま見たばかりの光景を信じ切れないような表情で固まっていた。
「いったい、何が起きたというのだ」
「これはどういうわけだ? まるでクリームじゃないか」
 給仕の女は少々お待ちください、と言って平皿にライスを盛ってくると、泡立つ糸にくるまった豆群をおもむろにライスの上へと流し掛けた。
「ちょっと」
「そんな」
 威厳とアイデンティティの崩壊した小さな悲鳴が起こると、あとには静けさが残った。
 女は最後にどこからか持ち込んできた卵黄を豆群のくぼみに乗せた。白く細い指をこすり合わせるようにして刻み青ネギをふりかけ、さらに醤油を回し掛けて手を合わせる。醤油の黒を浴びて、豆達はブラウン・カラーの宝石のようにきらきらと艶めいていた。
「いただきます」

 給仕が食事を終える頃、エプロン姿の二人は向かい合って席に着き、時が満ちるのを静かに待っている。


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